わたしが舞台を好きなわけ

観劇した舞台の感想や自分なりの批評を書き綴るブログです

”失敗”に向き合うということ ~ミュージカル刀剣乱舞「江水散花雪」~

※注意※
・以下の内容は上演中の作品のネタバレ、台詞バレを含みます。
・「山姥切国広」に関する感想は筆者の解釈がかなり入っています。


どんな世界でも、「常に挑戦を続ける」ことほど難しいものはありません。
しかしミュージカル刀剣乱舞はそんな常識を吹っ飛ばし、「常に攻め続ける」コンテンツ。毎回毎回予想を超えて、「今までに無かった何か」を見せてくれる。“想像通り”であったことが一度もありません。

今作「江水散花雪」は、「任務の失敗」を描いた異例の作品。
出陣した6振りは、歴史改変を止めることが出来ず、撤退を余儀なくされます。


物語の王道と言えば、力を合わせて困難を乗り越えるとか、何かを成し遂げるといったストーリー。しかし敢えて「失敗」を描いたことで、これまでの刀ミュにはないインパクトがありました。
そして単なる失敗の物語ではなく「全員で無事に帰還する」というドラマを描くことで、物語としても楽しめるものになっていたと思います。

いつものように全振りへの愛を込めた感想を。

 

 

和泉守兼定(いずみのかみかねさだ/演・有澤樟太郎)
成熟と成長。今作において、彼ほどこの言葉が似合う役はいないでしょう。
かつての主の死を看取り、刀の時代の終わりを見届けて。
全てを飲み込み、一回り大きくなった和泉守兼定が帰ってきました。
少々短気で喧嘩っ早い所も彼の魅力ですが、今作でそんな姿は封印。仲間たちの精神的支柱となっているさまが見て取れます。
「江水散花雪」の和泉守兼定は迷いも揺らぎもしません。それどころか、仲間を気遣う余裕と包容力を身に着けて、私たちの前に現れます。
彼の魅力が光る場面は、岡田以蔵を斬り、精神的に動揺している肥前忠広への声掛けでしょうか。ただならぬ表情で立ちすくむ肥前を見ただけで、かつての主を手に掛けたのだな、と察する和泉守。そして「泣けよ」と声をかけ、その体を支えてあげる底抜けの優しさ。
「結びの響き~」では土方歳三を斬れず、その死にただ泣くだけであった彼が、同じ境遇に陥った仲間を抱擁する。その姿に、胸を打たれます。
座長、そして最年長として公演を率いる役者の立場と、修行を経て成長した和泉守兼定の余裕。そのふたつが見事にシンクロした和泉守兼定でした。

 


山姥切国広(やまんばぎりくにひろ/演・加藤大悟)
「罪の十字架を背負う役」。
本作の山姥切国広から、私はそんな印象を受けました。
人の身を得てから長い時間を過ごしてきた本丸の“古株”。それでいて積極的に前には立たず、どこか厭世的な雰囲気を身に纏って“余生”を送っている…。
このように物語られる山姥切国広像は、これまでに無い、斬新な設定ではないでしょうか。
山姥切国広と言えば、作り手の異なるストレートプレイ「舞台 刀剣乱舞」の看板となる役。しかしミュージカル刀剣乱舞はそのイメージとは一線を画す、全く新しい「山姥切国広」像を提示して来ました。
彼は言います。


「俺はもうあの時のような思いはしたくない」
「俺に隊長を語る資格は無い」
「俺は仲間を無事に本丸へ帰してやることが出来なかった」


山姥切の語る過去について、直接的な回想はありません。それでも彼のせりふを拾い、繋ぎ合わせれば、どんな過去があったかを想像するのは難しくないでしょう。
「初期刀の歌仙兼定がある出陣中に折れた。そしてその時隊長として部隊を率いていたのは山姥切国広だった」
自然と、そのような憶測が成り立ちます。その“折れた”理由が審神者の采配ミスなのか、山姥切国広自身の失態だったのか、はたまた他の原因なのか。詳しいことは分かりません。
けれど間違いがないのは、山姥切自身が、そのことについて自責の念に駆られていることです。自責の念に駆られ、心の奥底に死に場所を求める気持ちを持ち続けていることです。
山姥切国広は元々影のあるキャラクターですが、そこに“諦念”や“生への執着の薄さ”という雰囲気を身に纏うことで、より浮世離れした美しさを醸し出していたのではないでしょうか。
折れたと思われる初期刀と、山姥切国広は、いったいどのような間柄だったのでしょう。
「これで俺も、ようやくお前の元に行ける」
「すまんな、お前に会えるのはもう少し先になりそうだ」
これらのせりふからは、単なる同僚を越えた、強い絆の関係であったことが伺い知れます。だからこそ、その大切な存在を、自分のせいで喪った(と考えられる)事実が許せないのでしょう。
そう言えば、本丸の古参だと名乗りながら、彼は修行の旅に出る気配もありません。
その身に纏う汚れた布は、彼にとって、仲間を連れ帰れなかった罪を象徴する「十字架」なのかもしれません。

余談ですが傘貼りの内職をしているシーンが大好きです。

 


大包平(おおかねひら/演・松島勇之介)
眩しいくらい真っ直ぐで、どこまでも誠実。
男らしく誇り高い大包平は、今作の登場刀剣で、私が一番好きな存在です。
呆れるほど生真面目で正直。そんな性格は、描き方によっては、“思慮が浅い”という誤解を招きかねません。しかし大包平という役を「声の大きな馬鹿」ではなく「責任感のある雄々しい隊長」として描き、彼の本質を浮かび上がらせてくれたことに、脚本への深い信頼を感じます。
彼は頑固で誠実です。隊長という立場に重すぎるほどの責任感を持ち、ばらばらな隊をなんとかまとめようと四苦八苦する。決して与えられた役割を投げ出さず、困難に真正面からぶつかる。まさに隊長にふさわしい器量を備えた刀だと思います。
山姥切国広を助けるために戻って来るシーンは、まさに彼の真骨頂。
「全員無事に帰すのが、隊長の役割と言ったのは貴様だろうが!」
これは大包平にしか言えない最高の台詞ではないでしょうか。
そして雄々しいだけでなく、彼は優しい刀でもあると思います。
南泉一文字が井伊直弼を斬り捨てた時。その亡骸を地に横たえるため、真っ先に駆け寄って手を貸したのは大包平でした。

 


小竜景光(こりゅうかげみつ/演・長田光平)
色っぽくミステリアス。捉えどころのない風来坊。
小竜景光は、本気で内面を描いたら一番役作りが難しい役だと思います。
楠木正成を筆頭に、多くの人の手を渡り歩いて来た名刀。
それ故に、ひとりの人、ひとつのことに執着し、深い関わりを持つことを避けて来た。私は小竜景光をそんなふうに見ています。
自らを旅人と自称し、謎めいたたたずまいを崩さないのは、多くの人の手を歩き、多くの別れを経験してきた彼なりの「心の守り方」ではないか。私はそう思っています。
今作、小竜景光は一時は自らの主であった井伊直弼ではなく、吉田松陰の傍にいる道を選びます。「(かつての主を)違う角度から見てみたかった」と彼は言いますが、敢えて井伊直弼から物理的距離を取ったのは、彼が相手に「踏み込んで傷つく」こをを避けたからではないかと感じました。
桜田門外の変を目撃した後の、「なんてことないよ、たくさんいた、主の一人さ」というせりふにも、つとめて他人に深入りしまい、とする彼の気持ちが感じられます。
しかし、深入りしまい、と思うことと、実際に感情を持たないことは違います。井伊直弼の亡骸を見て倒れそうになった。それ自体が、彼の動揺を示す動かぬ証でしょう。
言葉とは裏腹に、優しく繊細な心を持っている。その心を、捉えどころのない言葉で覆い隠して生きている。それが小竜景光のほんとうの姿なのではないでしょうか。
元主の亡骸に敬礼する小竜の姿は誠実で、彼の心の在処が伺い知れました。
複雑で多面的な小竜景光は、役者にとって実に演じ甲斐のある役だと思います。いつかは彼を主人公にして南北朝時代を描き、その内面に深く切り込み、炙り出すような物語を見てみたい。刀ミュさん、期待しています。

 


南泉一文字(なんせんいちもんじ/演・武本悠佑)
ミュージカル刀剣乱舞には、決まって純粋すぎる心がゆえに苦しむ刀が登場します。
源義経を慕うがあまり、己の使命を忘れかけてしまった今剣。
沖田総司を一途に思い、その命を助けたいとの葛藤に悩んだ大和守安定。
人間の兄弟に感情移入してしまった浦島虎徹
そして今作においては、その役どころが南泉一文字だったと思います。
戊辰戦争が起きず、平和裏に大政奉還がなされた歴史を見て、「この歴史が続けば、これから先の世界は、もっといい世界になるかもしれないじゃねえか」と言える南泉。
肥前や山姥切に取り縋って、井伊直弼を「殺さないでくれ」と叫ぶ南泉。
擦れたところのない、彼のまっすぐな心は、「放棄された世界」というおどろおどろしい結末に行きつく今作に置いて、確かな清涼剤になっていたと感じます。
そして何より、彼は可愛がられるということに馴れているように思います。
井伊大老を「おっさん」と呼び、ぞんざいな態度を取ってもなお許されるのは、南泉が持つ可愛げの故でしょう。
井伊直弼の亡骸に、そっと花を手向けることの出来る彼の優しさが大好きです。

 

 

肥前忠広(ひぜんただひろ/演・石川凌雅)
人斬りの刀。それが肥前忠広を肥前忠広たらしめるアイデンティティです。
ぶっきらぼうな口調と擦れた眼差し。
歴史が改変され、皆が対処に悩む中、肥前は真っ先に、「死ぬべき人を殺していく」という道を選びます。「人を斬る」ことによって自分の役割を果たそうとする。それが彼にとって自然な「在り方」なのでしょう。
そんな彼が、かつての主・岡田以蔵と出会ってしまった時に見せる心の揺らぎは見せ場です。斬りかかって来る以蔵に対し、はじめ肥前は刀を抜きません。何度も抜かずにかわし、そして我慢できなくなった時、爆発したように鯉口を切る。
岡田以蔵を斬った後、こらえきれずに涙する場面も印象的でした。
和泉守兼定に抱えられて立ち上がると、それでも自分の足でしっかりと歩こうとするところに、肥前の意思の強さを感じました。

 

 

 

突き付けられる37000の命 ~ミュージカル刀剣乱舞「静かの海のパライソ」~

1, 総評
2, キャスト別感想

 

《総評》
完成度が高いミュージカル。
「静かの海のパライソ」という作品を表すなら、この一言に尽きるでしょう。
過不足無い脚本、民衆の群舞のエネルギー、耳に心地よいナンバーの数々、グランドミュージカルを意識したような演出。どれを取ってもクオリティが高く、見応えのある作品。
2.5次元舞台という枠を超え、「刀剣乱舞」を知らない人にもお勧めしたくなる物語です。

本作は、「島原の乱を歴史通りに遂行させる=結末を知っていながら3万7千の人々を死へと導く」という凄惨な物語。
そして、戦を忌み、暴力を厭う強いメッセージが込められた物語だと思います。
「単純な暴力を選んでしまった時点で間違い」
という鶴丸国永のせりふは、作品のテーマを象徴するものだと言えるでしょう。

何よりも嬉しかったのは、「反乱側=正義」という単純な構図で島原の乱を描かなかったこと。
島原の乱と言うと、「弾圧された可哀想な民衆」と「彼らを女子供まで虐殺した幕府」という二元論で語られがちですが、「静かの海のパライソ」では
一揆軍が強引な勧誘をして断った村人を殺害する
一揆軍が寺院を襲い、異教徒である僧侶を殺害する
といった事実もきちんと描かれます。嬉々として「パライソ」と叫びながら武器を取る民衆たちは狂気を孕んでいて、観る者に恐ろしさを感じさせます。
 私が伊藤栄之進先生の作品を愛するのは、過去の悲惨な出来事を事実として伝えてくれるから。そして、決して善悪と言う単純な構図で歴史を描かないから。「静かの海のパライソ」の脚本からは、改めて、歴史に誠実に向き合う先生の姿勢が感じられました。


以下、主要キャスト別感想です。

2,キャスト別感想


鶴丸国永(つるまるくになが/演・岡宮来夢
間違いなく本作品の主役でありMVPでしょう。「静かの海のパライソ」は島原の乱の物語であると同時に、全てを背負って立とうとする鶴丸国永の物語でもあると思います。
冒頭、「鶴丸。島原です」という審神者の一言だけで任務の内容を察する鶴丸。そして彼の求めに応じて編成を任せる審神者。たったこれだけのやりとりで、両者が長い時間をかけて築いて来た深い信頼関係が伺えます。
徹底して自らが憎まれ役を引き受け、演じ切る鶴丸。意を唱える松井江に、「刀剣男士、止めるかい?」と問いかけた時の眼差しの凄味には、観ているこちらのほうが圧倒されました。
今回は、メッセージ性のあるせりふ、重要なせりふの多くを鶴丸国永が担っていたように感じます。
「白と黒に分かれての戦なんてありえない」
「ひとりひとり違うんだ、戦をしている理由なんて」
「単純な暴力を選んでしまった時点で間違い」
おそらくこれらの言葉は、たくさんの戦を経験し、その中でたくさん悩み、考え、鶴丸が辿り着いた結論なのでしょう。そして、伊藤先生ご自身の思いを鶴丸に託して言わせた台詞でもあると思います。

忘れられないのは、「37000人、ただの数字じゃないんだ、それぞれ命があったんだ、生きていたんだ」という、血を吐くような叫び。作品のメッセージすべてを凝縮したようなこの言葉を、全身全霊で叫ぶ姿に圧倒されました。
 登場シーンのソロ、はじめは抑えた声で丁寧に、サビはぐっと声量を上げて爆発したように歌い上げるのがとても素晴らしかったです。

 

大俱利伽羅(おおくりから/演・牧島輝)
大俱利伽羅は、己を語らず、他人と馴れ合うことを嫌う刀です。しかしその反面、言葉には出さずとも誰よりも周りを見ている存在であるとも思います。そして周りを見ているからこそ、本当に大切な時に必要なことが出来るのだと思います。
鶴丸国永という刀がやろうとしていること、その全てを理解した上で傍にいる。
必要以上に口も手も出さない。けれど相手が本当に耐えきれなくなったときは、すぐに支えられるだけの準備はしている。この難しい在り方は、彼だからこそ成しえたのだと思います。並の人間なら、黙って見ていられずつい口を挟もうとしてしまうでしょう。

鶴丸にとっては、大俱利伽羅が何も聞かないでくれること、ただ黙って傍にいてくれることが大きな救いになったのではないでしょうか。
彼の「気遣い」はひとり鶴丸だけに向けられていたわけではありません。例えば一揆に加わる幼い兄弟と友達になった、と嬉しそうに語る浦島虎徹に「あまり深入りするな」と珍しく自分から助言をするシーン。自分の経験に基づき、相手を思いやった、実に真実味のこもった忠告でした。
なお、鶴丸国永を案じるソロが本当に素晴らしく、全編通しても特に気に入ったシーンになりました。


松井江(まついごう/演・笹森裕貴)
「静の芝居」の真骨頂。
多くを語らず、目で、しぐさで、表情で、戸惑いと迷い、苦悩を表現し続けなければならない役。松井江からはそんな印象を受けました。鶴丸国永がこの物語の主旋律だとするならば、松井江は物語を貫く重奏低音、とでもいうべきでしょうか。島原の乱の「当事者」である彼の存在が、物語に深みを与えていたと感じます。
 島原の地に降り立った時からどこか落ち着かず、不安と恐怖が入り混じった表情をしている松井江。それだけで、彼の背負ったトラウマの重さが伺い知れます。
 そして天草四郎が死に、鶴丸が彼に成り代わることを提案した時から、彼の中の「違和感」はより明確なものとなって現れます。どの場面でも、常に遠巻きに周囲を見つめている松井江。彼の視線や表情は、どんな台詞よりも雄弁に「納得できない」という気持ちを物語っていました。
 最後までキリシタンを斬れずに苦しんだことも、全てが終わった後鶴丸を殴りつけたのも、彼が人間らしい心を持つ優しい刀だからだと思います。優しいからこそ、簡単に納得できないし受け入れられない。
 普段は落ち着いた声で話す彼が、何度もむき出しの感情をさらけ出す場面があったのが印象的でした。


豊前(ぶぜんごう/演・立花裕太)
 誰かを支える、ということが、これほど似合う役があるでしょうか。豊前江には、全て受け止めてやるから安心して懐に飛び込んで来い、とでも言いたげな度量の広さを感じます。所在不明という事実を持ちながら、その憂いを微塵も感じさせないどっしりとした存在感。そこに、彼が「りいだあ」と呼ばれるに足る所以があるのでしょう。
今回、豊前江が主体となって何かをする場面はありません。しかし出陣の中で彼は終始松井江を気に掛け、彼を精神的に支えることに自らの役割を見出していたように思います。そしておそらく、鶴丸も彼にそのような役目を期待して編成に加えたのでしょう。
松井江と共に幕府軍に潜入することになった彼が、「刀の時と違って同じ赤に染まってやれる」と歌い上げるシーンが大好きです。ただ傍にいるだけでなく、共に同じ業を背負ってやろう、という、彼の覚悟が感じられます。
 難しい理屈は嫌いだ、と語る彼ですが、実際は察しがよくて聡明なキャラクターではないでしょうか。鶴丸国永から、松井江と共に幕府軍への潜入を頼まれた彼は、鶴丸の意図を全て汲み取ってお礼を言います。普通なら怒ってしまいそうな場面でお礼の言葉が言えるのは、豊前江がうわべに振り回されない、本質を見る目を持っていることの証でしょう。「たいしたリーダーだよ、あんたは」と彼が鶴丸を労う場面は、この作品の中でも私が特に好きなシーンです。


浦島虎徹(うらしまこてつ/演・糸川耀士郎
 無邪気で純粋。そして真っ直ぐ。明るく裏表のない浦島の存在は、ともすれば暗くなってしまいがちなこの物語において、大きな救いになっていたと感じます。疑問も迷いもストレートに口にしてくれる浦島。「島原の乱を知らない」という彼が周囲に質問する、という形で、歴史に詳しくない観客を物語に引き込む役割も果たしていたと思います。
 彼の見どころは、やはり一揆軍の幼い兄弟とのやり取りでしょうか。同じ刀派の間では末っ子の彼が、弟のように接することが出来る存在が出来た。少し背伸びして兄らしく振舞おうとする姿には、微笑ましいものがあります。しかし彼らと仲を深め、深入りすればするほど、その先に待ち受ける残酷な運命に苦しまなくてはなりません。純粋な浦島にとって、どれほどショックだったことでしょう。けれど彼は、その酷さから目を逸らすのではなく、真正面から受け止めて傷つくことのできる刀なのだと思います。そして泣くだけ泣いたら、立ち直る強さを持っている刀なのだと思います。
 “本丸”に戻った彼が、今回の出陣について兄たちとどんな会話をするのか。気になるこの点は、きっと観客の想像にゆだねられているのでしょう。


日向正宗(ひゅうがまさむね/演・石橋弘毅)
 天草四郎豊臣秀頼の遺児、という伝説は、時代を越えて今もなお語り継がれています。一見荒唐無稽な伝説が力を持ったのは、徳川幕府に不満を持つ者たちが、天草四郎に再起と反逆の夢を託したからだといえるでしょう。
豊臣と石田。敗れ去った二つの家に縁を持つ日向正宗は、本作において、島原の乱の「もう一つの側面」を浮かび上がらせてくれる存在です。
 日向は言います。「集まって来た人達、キリシタンばかりじゃなかった」。
 これが島原の乱の本質なのだと思います。
 西軍や大坂方に与して転落人生を歩んできた人間たち、仕える家を失くした浪人たち、飢え死にするほど困窮した人たち。そういった行き場のない弱者たちが、「太閤殿下の時代はもっと良い暮らしだったはずだ」という幻想に望みを託して一揆に加わる。もしかして、天草四郎という少年は、彼らに祭り上げられた偶像だったのかもしれません。
 豊臣の馬印を手にした日向正宗が、秀頼の遺児と崇められ、困惑しつつも民衆の扇動者となっていく様子は、本当の天草四郎もこうであったのかもしれない…と考えさせられました。
 そして、はじめから「秀頼の御落胤」伝説を利用することを見越して日向正宗を編成に加えたのだとしたら、鶴丸の采配は慧眼という他ありません。
 日向もまた多くを語る役ではありませんが、短刀としては精神的に大人びた、芯の強い刀なのだと感じます。特に戦闘の場面では、彼の落ち着きと的確な判断が光っていました。

 以上、簡単になってしまいましたが主要キャストの感想を書いてみました。

名も無きものへの鎮魂歌 ~ミュージカル刀剣乱舞「東京心覚」~

見終わって、呆然とする。

作品の美しさに、世界観に、あるいはメッセージに打たれて、しばらく息ができない。

そんな演劇に出会ったことはありませんか。

この5月に大千秋楽の幕を下ろした、ミュージカル刀剣乱舞「東京心覚」は、私にとって、そのような舞台でした。

 

私はもともと、東宝系のグランドミュージカルや宝塚を観劇してきた人間です。

その反面、普段ゲームやアニメに触れる習慣がなかったので、いわゆる「2.5次元舞台」とは全くご縁のない人生を送って来ました。

けれど、昨年のコロナ禍でたまたまこの「ミュージカル刀剣乱舞」の無料配信と言うのを見て、ひとりの歴史好き、演劇好きとしてその脚本に惚れ込んでしまいました。

皆まで言わない、観客に答えを委ねる。そういう奥行きの深い物語が好きになり、原作を学び、とうとう本公演のチケットを取りました。

 

 

見えないもの、残らないものは存在しないのではない。

たとえ見えなくとも、確かにそこにあるのだ。あったのだ。

 

 

「東京心覚」はそんな強くとも優しいメッセージに貫かれた物語。

歴史を愛し、言葉で語られない感情表現を好む私にとって、これほど深く魂を揺さぶられた舞台はありませんでした。

 

 

 

1、コロナが無ければ生まれなかった物語

「東京心覚」は間違いなく、新型コロナウイルスの流行が無ければ生まれなかった物語。

昨年の4月から5月。1度目の緊急事態宣言で、無人のようになった東京の街。

その異様な静けさの中で、この物語の原案が生み出されたと聞きました。

 

物語にはたくさんの「線」が登場します。

舞台上に時間遡行軍が引いて行った「線」。

誰かが使うからこそ意味を持つ、文字という「線」。

江戸の町を怨霊から守るために引かれた結界の「線」。

そして眼に見えないウイルスによって分断された「線」。

 

私たちが生きるいまは、ソーシャルディスタンスが声高に叫ばれ、ひととひととの距離が遠ざかってしまった社会。

だからこそ、舞台上に繰り返し立ち現れる「線」は、観る者の心をざわつかせます。

東京心覚はいま、この時代だからこそ意味を持つ、稀有な物語だと言えるでしょう。

 

物語の冒頭。スクリーンにビル街や信号機が映り、自動車のエンジン音や横断歩道の音響信号、雑踏の音が劇場を包み込みます。

その街並みに佇んで、

「ここが、東京…かつて、江戸だった場所」

と呟く水心子正秀(すいしんしまさひで)。

そのとき彼が見たものは何だったのでしょう。

作品内では明言されていませんが、彼の眼に映ったのは、新型コロナウイルスにより、当たり前の生活を奪われ、分断された世界だったのではないかと思います。

そしてその光景を見た時から、彼の胸の中に「これは守るべき歴史なのか」という迷いがうまれた。

その迷いに呼応して、東京という土地の持つ記憶が彼に流れ込んできて、ひとりでに語り始める…。

だから、この物語の起点は、コロナ禍の日本…。

解釈は多々ありますが、私はこの物語をそのように捉えました。

 

 

2、繰り返される主題~歴史の中で忘れ去られた存在。~

歴史と言うのは、いつだって勝者が語るもの。

敗れた者、あるいは声をもたないものは、その記録の中からこぼれ落ちていく。

ならば彼らははじめから歴史に存在しなかったのか。彼らの行動は意味のないものだったのか。

いや、決してそうではない。

おそらくこれが、この作品を貫くテーマだと感じます。

 

「名もなき者」「歴史に名を残さなかった者」

これは伊藤栄之進先生の描く、ミュージカル刀剣乱舞の脚本に繰り返し現れるテーマです。

例えば「刀の時代の終焉と、近代日本の黎明」を一発の銃声に託して描いた2017年の公演「結びの響き、始まりの音」。

この物語では、「名もなき者」=物語(逸話)を持たぬ存在 がきわめて重要な意味を持ちました。

記録からは零れ落ちてしまった、数多の存在。

名も無き誰かを掬い上げよう、という思いが、作品から強く感じられました。

その思いをより踏み込んで、強いメッセージとして提示してきたのが今回の公演「東京心覚」だったのではないでしょうか。

 

「東京心覚」には、能面をまとい、一言もせりふを発しない少女が舞台上に繰り返し現れます。何かを言いたげに、けれど声を発することなく舞い踊る少女。この少女と言う演出は、歴史の陰にある、数多の「名もなき声」を表現する存在でしょう。だから彼女には名前が無く、顔が無い。

それは同時に、歴史の中だけでなく、現代を生きる、決して名を成したわけではない数多の群衆、つまり「私たち」の人生や存在を肯定するメッセージ。

 いまここで、懸命に生きる全てのものへのあたたかなエール。

それが、この物語の根幹にある「思い」なのだと感じました。

 

 

3、“問わず語り”の優しさに包まれて。

優しくも確かなメッセージに貫かれた「東京心覚」を象徴するのが、芝居のエンディングを飾るナンバー「問わず語り」です。

8振りが優しく歌い上げるこのナンバーは、まさに生きとし生ける全てのものに捧げられた讃歌。作品に込められたすべてのメッセージが詰まったミュージカルナンバーだと感じます。

 

誰もいなくても 大地はそこにある
誰もいなくても 空はそこにある
誰もいなくても 風は吹き荒れる

でも誰かがいなくては 歌は生まれない

誰もいなくても 日は昇り沈む
誰もいなくても 時は止まらねえ
誰もいないなら 探しにゆこう
誰かがいる風景 誰かといる景色

 

口ずさむたびに、目の前の視界が開けてゆくような美しい言葉に彩られた歌詞。

 

 

そしてそれを、観客に押し付けるのではない。最後に「これは問わず語り 聞いて欲しかったひとりごと」と言い置いて、そっと舞台を去っていく。

なんと美しい終わり方なのでしょう。

 

「問わず語り」の穏やかな旋律を聴くと、私は胸がいっぱいになってしまいます。劇場でこの曲を聴いた時、天から降り注ぐ音を聞きながら、温かな何かに心を包まれているような感覚になりました。

 

私たちはまだ生きられる。いや、生きていよう。

 「東京心覚」は、そんな希望の灯を胸に灯してくれる作品でした。

 

4, キャスト別感想

 《キャスト別感想》

(新々刀と三池派の感想が多く、江派はやや少なめです。めっちゃ頑張って書いたのではじめの方だけでもぜひ読んで行って!)

 

水心子正秀(すいしんしまさひで/演・小西成弥)

物語の冒頭に姿を現すのも、物語の最後を締めるのも彼。ミュージカル刀剣乱舞は「主演」が存在しない作品ですが、本作では水心子が事実上の主役だったと感じます。彼が“東京”をテーマにしたこの作品の主軸を担うのは、江戸で生まれ、江戸で打たれた刀であるがゆえでしょうか。

いつだって肩に力の入った、気負いの見える話し方。新々刀であるがゆえの「若さ」が滲む思考や振る舞い。その青臭さこそが、水心子正秀という役の魅力でもあります。 「コロナ」という単語こそ登場しませんでしたが、今の情勢を暗に指して、「人々がこんなに苦しい状況に置かれる歴史」を「なぜ守らなくてはいけないのか」というストレートな疑問をぶつける芝居に、生真面目で正義感が強い水心子らしさが現れていたと感じます。

終盤、歴史を遡り、歴史上の人物たち問いを投げかける水心子。あの役割は、真面目でひたむきで、いつだって懸命な水心子だからこそなし得た全身全霊の「問いかけ」だったのだと感じます。

「新々刀の誇りにかけて」

そうきっぱりと言う時の、水心子の真っ直ぐな眼差しが好きです。己の役目に、誰よりも忠実にあらんとする曇りのない姿。「水のように清」い、澄んだ心を持つ彼だからこそ、この優しい物語の主人公となりえたのでしょう。おそらく「水心子正秀」という役を演じる上で一番大切なのは、整った容姿でも、歌や殺陣のスキルでもなく「眩しいほどのまっすぐな心」なのだと思います。誰かに寄り添おうとする心。誰かを助けたいと思う心。

演じられた小西さんは、この作品に関わる責任の重さをたびたび口にされていました。演じ手の必死な思いと、すこし気負って背伸びをした水心子正秀という役柄。そのふたつが見事にシンクロした瞬間を見ることが出来たように思います。特に千秋楽は、よい意味で小西さん自身と役との境界が薄くなっていたように感じました。

 そうして水心子正秀という役は、本作にとってこちら(客席)とあちら(舞台)とを繋ぐ存在でもあります。物語の終盤、劇場に「来れなかった人」「来ることを諦めた人」に向けて、「悔しかっただろうね」「君の決断を尊重するよ」と直接呼びかける水心子。

 「結界は、人の心の中にしか存在しない」というせりふを、身を振り絞るようにして叫んだ時、そこには役を超えた強い熱情が感じられました。

 

源清麿(みなもときよまろ/演・佐藤信長)

水心子の相棒にして親友。「寄り添うこと」「見守ること」に徹した役柄。彼が主体となってなにかをするシーンはひとつもないというのに、そこにいるだけで安心感があり、確かな存在感がある。お芝居としては名脇役とでも言うべきでしょうか。その塩梅が、刀剣男士・源清麿として本当に絶妙な役作りだったと感じます。

作品パンフレットのインタビューで、清麿役の佐藤さんは「水心子正秀は堅実な努力型で、源清麿は天才型」と述べています。彼の作る清麿像は、自然体でそこに立っていて、ふわりと周りに溶け込む。そんな雰囲気を感じます。

彼にとって親友の水心子はどんな存在なのでしょう。

どこまでも一対一で対等な相棒。私にはそんなふうに感じられました。源清麿は、水心子が傍で悩んでいることを察しても、そこに土足で踏み入るような真似をしません。「水心子、なにか僕に出来ること、ある?」と問いかけるシーンがありますが、水心子がためらいを見せると「そっか」と言って引き下がる。決して自分から手や口を出そうとはしないし、結論を急いで求めようともしない。そこに、親友を一振りの対等な相手として信頼し、尊重し、一歩引いて見守ろうとする源清麿の優しさが滲み出ています。

 二人が歌うミュージカルナンバー「ほころび」がとても好きです。

「水清ければ魚棲まず それでいい」と歌う水心子に、「魚も棲むかもしれないよ」と声をかける源清麿。自分の素を隠し、少し無理をして生きながら「それでいい」という言葉で他人に一線を引いてしまう親友に対して、そっと“希望”を歌いかける。そうして、「隣でいつも見ているよ」と声を重ねる。そこに、長い時間を共にしてきた水心子と清麿の絆の深さを感じます。

誰かに寄り添うこと。そばで見守ること。それはこの作品のテーマにもつながる行為であります。その意味で、源清麿の在りようは、「東京心覚」という物語を象徴する役どころなのかもしれません。

 

大典太光世(おおでんたみつよ/演・雷太)

大典太光世は、「刀剣乱舞」で私が一番好きな刀剣男士です。数々の逸話を持ち、それ故に人から恐れられ、長らく蔵に封印されてきた霊刀。人間の都合で封じ込められてきた彼に、過干渉家庭に生まれ、自由を奪われて生きて来た私は、知らず知らず自分自身を重ね合わせて見ていました。そして彼の孤独な魂に、深い諦めに閉ざされた心に、不器用な優しさに、人知れず深く共感し、心を寄せて来ました。

だからこそ、この大典太光世という刀がミュージカルでどのように描かれるのか、私は発表があった時からずっと注目していたのです。

「東京心覚」の大典太光世は、臆病さや繊細さといった面よりも、凄まじい霊力を持つ刀という面に焦点を当てて描かれているように感じます。それは、重戦車のような殺陣に最も端的に表現されていると言えるでしょう。はじめて観劇した時、最も印象に残ったのは、凄まじい打撃力を感じさせる彼の殺陣でした。腰を低く落とし、刀を真上から振り上げて斬る。或いは勢いよく刺して敵を引きずる。圧倒的なパワーを感じさせる、男らしく荒っぽい戦いぶり。まさに天下五剣の真価を見た思い。大典太光世の殺陣からは、その称号にふさわしい強さが余すところなく感じられました。

同時に、彼が抱える、あまりに強すぎるがゆえのジレンマをひしひしと感じました。「持て余した強さ それは最早呪い」と彼が歌い上げる場面がありますが、大典太光世にとって「強さ」は人間から恐れられる原因であり、己を縛る枷であったに違いありません。彼にとって強いことは誇るべきことではなく、いつだって厭わしいことだったのだと改めて思わずにはいられませんでした。

 又、大典太の、兄弟刀・ソハヤノツルキに対する関わり方が素敵でした。大典太は決して口数が多くない、陰鬱な空気を身に纏っている役どころです。それでもソハヤノツルキに対しては、時にからかって見せるような場面さえある。そこに、心を許した、気の置けない間柄と言う兄弟関係が表れています。

そして、弟刀が精神的に動揺している時には、何を言うでもなく傍に寄り添い、見守る。そんな演技に、二振りがまぎれもなく兄弟であることを感じさせられました。個人的に好きなのは、南光坊天海が息を引き取った時、それを見てなにも言えなくなってしまったソハヤノツルキに「入寂だ」とたったひとことだけ声をかける場面です。慰めるわけでも諭すわけでもない。ただひとこと、そっと事実を告げる。そこに、大典太光世の分かりにくくとも確かな優しさを感じます。

天海に向き合うこと、天海を看取ること。それは徳川家康と共に在ったソハヤにとって心穏やかにはいられないことのはず。その時なにをするでもなく共にいてやるところに、彼のこころを感じ取ることが出来ました。

 口数が少なく、誤解されやすい。陰鬱でダークな雰囲気を身に纏う。そのような役どころを舞台上でどう表現するのか。幕が上がるまで、私はずっと気になっていました。しかし幕が開けてみれば、あまりに的確に大典太光世の本質を捉えた演技に唸らされました。

この難役を、見事に演じてくださった雷太さんに深く感謝をしたい思いです。

 

ソハヤノツルキ(そはやのつるぎ/演・中尾暢樹)

弾けるような明るさと、その裏にあるわずかな翳り。ソハヤノツルキの持つふたつの面を、しっかりと表現した演技であり脚本だったと思います。大典太光世とソハヤノツルキは「陰と陽」に例えられがちな間柄であり、ともすればソハヤノツルキは太陽のような明るさを持つ役と捉えられがちです。しかし、彼の本質は、徳川家康の佩刀として、300年の長きにわたり、久能山東照宮墓所に納められていた逸話。長い間、日の光を見ることも、刀の本分として振るわれる機会もなく、棺の側で守護の役割を果たしていた事実です。そのような来歴を持つ彼が、人の姿を取るならば、ただ明るいだけの性格であるはずがない。

むしろ、仄暗さを抱え、それを明るい振る舞いで覆い隠していると考えるほうが理にかなっているでしょう。そしてソハヤノツルキを単なる明るい刀とは書かず、その陰の部分をきちんと描いたことで、役としての深みが段違いだったと思います。中尾さんも、ソハヤの持つこの多面性を掘り下げた役作りをされているように感じました。

 「徳川の守護」という祈りを込められた刀である彼が、上野戦争江戸幕府の崩壊を目の当たりにした時「三百年保ったんだ」とあえて明るく言おうとする気丈さ。南光坊天海の死を見届けるまなざしの切なさ。そのような演技の端々から、彼の心の揺らぎを感じ取ることが出来ました。

 

豊前(ぶぜんごう/演・立花裕太)

「忘れ去られてしまったものは、存在しなかったことになるのか?」というテーマに貫かれた「東京心覚」。この作品において、重要文化財でありながら実物が「所在不明」である豊前江を出したことに意義を感じます。

「存在しているのかしていないのか、俺だって自分のことがわからねえ」「でも誰かに憶えてもらっているうちは、存在しているってことだよな」。このようなせりふは、豊前江という役が口にするからこそ重みを持ち得ると思うからです。

 やはり豊前江で特筆すべきは、太田道灌とのシーンでしょうか。どんなに彼と仲を深めても、最後には、史実通り死んでもらわなくてはならない。ともすれば、自分が手にかけなくてはならない相手。そう理解していながら、彼と向き合い、語らい、城作りの手伝いをする豊前江。「知りもしねえで殺したくねえんだ」ときっぱり言い切る豊前江。

 太田道灌を斬った時の、一切の感情を封じた演技は強く印象に残るものでした。感情を振り捨てて役目を果たす。けれど感情を失ったわけではない。そんな豊前江の「こころ」が、立花さんの演技からひしひしと伝わってきました。

ぐっとくるのは、自分が斬った太田道灌の亡骸を覗き込み、その眼をそっと閉じてやる場面です。そして傍らに立つ五月雨江に「この人にも、何か歌ってやってくれないか」と弔いの歌を求める。その振る舞いに、刀でありながら人間らしく死を悼もうとする、豊前江の優しさが滲み出ています。

 

桑名江(くわなごう/演・福井巴也)

私にとって桑名江は、どこかつかみどころのなさを感じさせる役です。恥ずかしながら、まだ彼のキャラクターというものを十分理解しきれていないのですが、彼が「誰もいなくなった世界」をたった一振りで耕す姿に心が揺さぶられました。

彼が耕していたあの世界は、いったい何だったのでしょう?インターネットには様々な考察が上がっていますが、正直なところ私には答えが出せませんでした。ただ薄ぼんやりと、歴史を守った果てに辿り着く未来なのかもしれないと想像するだけです。

桑名江の一番好きなせりふは、「いいねえ山吹!ここを一面の山吹畑にしよう」です。人がいなくなり、全てが忘れ去られたような世界と言えば、私たちは絶望しか感じない。だからこそ、彼の、なんの迷いもなく山吹の花を植え、育てていこうという振る舞いに心を動かされるです。

ひりひりするほどのメッセージ性に満ちたこの作品において、桑名江の(良い意味での)マイペースさは、物語にとって大きな救いになっていたように思います。

 

五月雨江さみだれごう/演・山崎晶吾)

クールで感情を表に出さない、そんな役どころという印象を受けました。時々口元を黒いストールで覆う動作は、感情を隠したいという思いの表れでしょうか。余計なことは言わない役。太田道灌の詠んだ歌の意味を豊前江に問いかけられた時、「やめておきましょう」「言わぬが花の吉野山、です」とすう、と引いてしまうところにも、余韻や風情をたいせつにする彼らしさが表れていますね。

五月雨江が、太田道灌とふたりで声を重ねて歌う場面が好きです。

「人は何故 歌うのだろう。

 心に留めておけぬから

  雲から溢れ零れ落ちる雨の如く」

歌詠みの真髄に溢れた、美しい歌詞と旋律だと思います。

松尾芭蕉を敬愛し、歌心のある彼は、「だれかのうた」に彩られたこの物語に不可欠な存在だったのではないでしょうか。

そして演技と言う面で目を引いたのは、他の役とは明らかに違う五月雨江の「動き方」。殺陣にも動作の一つひとつにも、「忍び」という設定が良く活かされていたように思います。

 

村雲江(むらくもごう/演・永田聖一朗)

「正義とか悪とか興味ない。どうせ勝ったほうが正義なんだろう?」。登場ナンバーでそう歌う村雲江は、すこし投げやりな発言とは裏腹に、真実を見る目を失わない刀だと思います。

 分からないことは「どうして」「なんで」と口に出して聞く。時々、こちらがはっとするような言葉や、鋭く盲点を突く言葉を投げかけてくれる。そこに彼が、しっかりと自らの芯を持ったキャラクターであることを感じます。

村雲の台詞は、時に観客の疑問を代弁し、観る者の助けになってくれたのではないでしょうか。

一番心に残ったのは、「線なんて引くから、あっち側とこっち側で分かれちゃうんだ」という台詞。

 人間が引いた線や価値観がどれほど一方的であるのか。それは、人間によって「二束三文」という価値観を押し付けられた経験のある彼の言葉だからこそ説得力があり、響くものがありました。

 

 以上、私の理解度に応じてボリュームが変わってしまいましたが、メインキャスト8人について思いを語らせて頂きました。

 

魂が交わるとき ~東宝「マリーアントワネット」~

今年の2月。

東急シアターオーブで、2年ぶりに東宝「マリーアントワネット」の再演を観てきました。

名曲ぞろいのミュージカルナンバーと豪華なキャスト、万人に分かりやすく感情移入しやすいストーリー。改めて、商業エンタメとして完成度の高い作品という印象を受けました。

 

・マルグリット・アルノーという装置

ミュージカル「マリーアントワネット」にはふたりの主人公がいます。

1人は言うまでもなくタイトルロールのマリーアントワネット。

そしてもう1人が奇しくも王妃と同じM.Aというイニシャルを持つ、貧民の娘マルグリット・アルノー。このミュージカルの原作者、遠藤周作が創作した人物です。

本来ならば決して出会うことのない、対極の境遇に位置する二人の人生が、ほんのひととき、革命を通じて交錯する。そこに、この作品の真髄があります。

もっと言えば、この作品の真の主人公はアントワネットではなくマルグリットでしょう。

貧富の差に憤り、王侯貴族を憎み、アントワネットの破滅を願って来たマルグリット。

しかし幽閉されたタンプル塔で、或いはコンシュルジュリの牢獄で彼女が見たアントワネットは、夫と友人を殺され、子供達と引き離され、全てを奪われて打ちひしがれる一人の女性でした。

王妃を憎む気持ちに迷いが生じるマルグリット。

そして最後の法廷で、彼女は自らの意思でアントワネットを庇おうとするのです。

このようなマルグリットの心情の変化こそが、ミュージカル「マリーアントワネット」の根幹をなすもの。

観客はマルグリットを通して物語を見る。マルグリットは観客の視点を代弁する存在でもあります。

マルグリット・アルノーという役の魅力は、彼女が曇りの無い眼を持っていることだと思います。マルグリットは貧乏であっても聡明です。

何が正しいのか、何が間違っているのかを自分の頭で考えられる女性です。

フランス革命は途中から、ギロチンの休む暇もないほどの粛清の嵐に覆われました。その雰囲気に飲まれ、追随してしまうのが大衆心理でしょう。

しかしマルグリットははじめ王妃や特権階級を憎んでいながら、生身の人間としての王妃に接して以降、その考えを変えた。

人の意見に流されず、ぶれない芯を持っている。

そんなマルグリット像が伝わってきます。

観劇はソニンさんの回でしたが、改めて、力強い歌声と魂を削るような演技に魅せられて、マルグリットが好きになりました。

 

 

・魂が交わる時。

ラストシーン。

処刑台へと向かう王妃が躓いて転ぶ。

マルグリットは衆人環視の中、彼女の傍により、手を差し伸べます。

差し出された手を取って、「ありがとう、マルグリット」とちいさく呟くアントワネット。

そして断頭台へと向かっていく王妃に、ひざまずき、最後の礼をするマルグリット…。

あの場面は、ミュージカル「マリーアントワネット」の中で一番の名シーンと言えるでしょう。

王侯貴族を憎んで生きて来たマルグリットが、最後の最後に、自分の意思で、死にゆく王妃にお辞儀をする。

その姿には、ひとりの人間として、またフランス王妃としてのアントワネットに対する彼女の最大限の敬意が感じられて。毅然とした意志に満ち溢れた神々しささえありました。

思うにあの瞬間、正反対の境遇を生きて来たふたりの魂は、心は、はっきりと交わり合ったのでしょう。

全ての音がやみ、劇場に流れた沈黙。

その中でひととき、眼差しを交わし合ったふたりの主人公。

あの一瞬のお芝居が、私はたまらなく好きです。

 

ミュージカル「マリーアントワネット」はまた何度でも再演して欲しい作品です。

タブーに切り込む問題作 ~宝塚花組「蘭陵王」~

ベテラン演出家のチャレンジ精神を感じた、という公演でした。
賛否両論がある作品ですが、個人的にはエンターテインメントとして素直に楽しめるものになっていたと思います。
 まず題材。雅楽「陵王」に題材をとった中国ものという珍しさ。蘭陵王はその名こそ有名ですが、彼の生涯を知る日本人は少ないのではないでしょうか。きらびやかな中国宮廷ものと、宝塚歌劇の華やかな舞台との親和性はとても高いように感じます。なぜ今まで、中国物の作品が少なかったのかと驚きを隠せないくらい。

さらに宝塚という「夢を見せる舞台」でありながら男色という禁忌を真正面から扱った作品ということにも驚きました。主人公蘭陵王があまりの美しさゆえに同性をも虜にし、時として慰みものにされる、という筋書きはショッキングであり、宝塚という表現手段にはそぐわない、という批判もあったと思います。それでもタブーに果敢に挑み、物語を通して意思を持って運命に立ち向かう人間の姿を描き出したところに、この作品の意義があると感じました。
 本作のヒロイン、洛妃(演・音くり寿)がなによりも魅力的でした。はじめは敵国の刺客として主人公・蘭陵王に近づく洛妃。正体を見破られてなお、「いつかお前の寝首を掻いてやる」と啖呵を切る強さは、宝塚歌劇のヒロインとしては型破りかもしれません。
 けれどこれは、ずっと人としての尊厳を奪われていた者たちが、意思を持って運命に抗おうとする物語。作中幾度も繰り返される、「与えられていたのではなく奪われていた」というセリフが胸に刺さります。

洛妃の勁さにこそ蘭陵王は惹かれたのかもしれません。
 はじめ敵同士として出会った二人が、互いに同じような生い立ちを持つ相手に惹かれ合っていく過程も違和感がなく、
 蘭陵王の処刑前、庭に姿を隠して生きよと訴える洛妃の絶唱には心を動かされました。
 もう一度観返したい作品です。

 

蘭陵王(演・凪七瑠海):男性さえ虜にした美貌の皇子。線の細い、どこか儚さを持つ彼女の容姿は、その役柄に何より説得力を与えていたと思います。村の少年として育ち、成長してのち王宮に迎えられたという設定。ずっと自分の尊厳を奪われ、脅かされて生き続けてきた彼のまとう孤独、そして強くあらねばならなかった哀しみを、彼女の細やかな演技はしっかりと表現していたのではないでしょうか。

最後に毒杯を干して死ぬのではなく、それを投げ捨てて生きる可能性に賭ける。その芯の強さが、本作の蘭陵王らしくてとても素敵です。

 

洛妃(演・音くり寿):彼女のような強いヒロイン、自立したヒロインが私は好きです。貧しい生まれの女性が殿方に見初められて幸せに…というお伽噺は宝塚でもありがちですが、そんな陳腐な女性像でないのが良いところ。本作の洛妃は、武術を身に着け、刺客として働き、自分の力で這い上がって来たヒロインです。その彼女が、殺すはずだった相手に惹かれ、あまつさえ身を挺して自死を思いとどまらせようとする。蘭陵王とともに戦い、彼を逃がそうとする姿はたまらなく素敵です。

思うにこのふたりは、互いに同じ「欠落したもの」を持っていたから、心の最も深い場所で繋がり合えたのではないでしょうか。そんな二人が史実通り死ぬのではなく、名を捨て古い人生を捨ててひっそりと新しい生を生きる。そんな結末が素敵な公演でした。

”カリスマ”の生まれる場所 ~宝塚花組「MESSIAH(メサイア)~異聞・天草四郎~」~

2018年7月19日

どこの世界にも、スターと呼ばれる人たちがいます。
彼らの放つ圧倒的なオーラ、華、持って生まれた輝き。
それはどんなに努力をしたからといって、誰もが持てるものではありません。

そんな天性のカリスマ性を持つスターが、今なお伝説を残す島原の乱の指導者・天草四郎を演じたらどうなるか…。
そのひとつの答えを示してくれたのが、MESSIAHという作品だったように思います。


わたしは常々、舞台とは「人間のエネルギー」が感じられる場所だ…と思っているのですが、MESSIAHはとりわけ、そのエネルギーが発散された作品だと感じられました。

島原の乱を起こす前、四郎が「立ち上がれ」と歌いかけ、絶望に満ちた人々が徐々に顔を上げ、集まり、意思を持って団結していくくだりは、とくにそう。

そのど真ん中で、強い求心力を持って輝く主人公=明日海りおの姿。


絶対的スターのカリスマ性を利用した演目であると同時に、役者が揃った、充実期の花組だからこそなしえた舞台なのだと感じました。

 

以下、印象に残った方々について個別に。

天草四郎時貞(演・明日海りお):彼女以上に天草四郎が似合う役者が他にいるでしょうか。この人についていきたい、と思わせる圧倒的なカリスマ性は、史実はどうであれ、数多の伝説を生んだ一揆の指導者にぴったりでした。
本作の天草四郎は、神の声を聞きません。「自分たちの手で圧政からの自由を勝ち取るのだ」という強い情熱によって人々のリーダーとなります。
外から与えられる力ではなく、自分の持つカリスマ性で自然と島原・天草の救世主となる…。そんな本作の天草四郎役は、長らく宝塚を、牽引してきた大スター・明日海りおの集大成だと感じました。役者として大成し、円熟期を迎えた彼女だからこそ挑めた役だと思います。

 

松倉勝家(演・鳳月杏):同情の余地もない悪役。彼女の芝居の上手さには度肝を抜かれます。私は芝居そのものが好きで宝塚を観ており、特定のご贔屓はいないのですが、誰がお気に入り?と言われたらちなつさん(鳳月さん)の名前を挙げると思います。それくらい彼女の実力は素晴らしい。最高の脇役というべきでしょうか。今回の松倉勝家は、天草の領民達に苛政を敷き、拷問をしてまで年貢を取り立てた藩主役。舞台ではその下衆っぷりが光っていました。登場した瞬間から滲みでていた傲慢さと冷酷さ。一切感情がこもっていない、領民を蔑むような眼差しがお見事。

 

松平伊豆守信綱(演・水美舞斗):徹底して「静」に徹した演技が見事でした。彼女の持ち味は明るさや溌剌さだと思うのですが、それを封印し、幕政を預かる重鎮の風格を醸し出していました。物語の松平伊豆守は、一揆軍がやむにやまれず放棄した事情を理解しながらも、鎮圧しなくてはならないという立場にある人物。しかも感情を直接吐露する場面はなく、葛藤を無言の演技で見せなくてはいけないという非常に難しい役どころです。彼女のぐっとこらえるような表情や押し殺した眼差しからは、それが十二分に伝わって来ました。抜擢に答えた演技だったのではないでしょうか。
特に最後の場面、生き残った山田佑庵と対面し、無言で別れる場面は、彼女の「静の芝居」の真骨頂だと思います。幕府の屋台骨を支え続けてきたその立場から、一言も山田に声をかけない松平伊豆守。しかしその眼に光るものがたたえられていたのを、私は忘れることはできません。あの一滴の涙だけですべてを伝えられるのは、彼女の演技の真価といえるのではないでしょうか。

絢爛たる”夢物語” ~宝塚宙組「天は赤い河のほとり」~

 宝塚歌劇の持つ煌びやかな輝きと、夢の園のような世界観。

それは、お伽噺のような物語にはもってこいの舞台です。

天は赤い河のほとり」はいまでも私の心に残っている作品。純粋な気持ちで、夢に酔いしれることができた作品。

 少女漫画原作の舞台を見るのは初だったこともあり、じつは最初に観劇した時はそこまで、ピンと来なかった「天は赤い河~」。

けれど最終的には、2018年に見た舞台作品でベスト3に入るほど好きだと思えるようになりました。

 

古代オリエントヒッタイト帝国を舞台にした有名漫画の舞台化。全28巻の内容を、駆け足でまとめたので、漫画を知らない観客にはちょっとわかりづらい構成になっていたと思います。けれどひとたび原作を手に取ってみて、その世界観が舞台に忠実に再現されていることに驚きました。

 

それを踏まえて2回目の観劇。

すっかり好きになりました。

(もちろん舞台としては、原作を全く知らなくてもすんなり理解出来ることが望ましいのですが)

 

まず、ダイナミックなオープニングが何よりも見事。ヒッタイト、エジプト、ミタンニの3王国の主要キャストが順番に現れ、全員のコーラスと共にテーマ曲を歌い継ぐ演出は、一気に観客を物語の世界にいざなってくれます。

 

ただただ、わくわくする。

 

この作品以上に「わくわく」させてくれる舞台のオープニングに、私はまだ出会ったことがありません。

 

そして魅力的なのは、それぞれの個性にぴったり合った主要キャストの配役。

印象に残っているキャストを少しだけ。

ラムセス(演・芹香斗亜)舞台上に現れた瞬間から、観客をくぎ付けにする存在感。ああ、この人はこの役で一皮むけたな、と思わせてくれました。溢れ出る野心と力強さ、男の余裕を見事に体現していて、これ以上ないほど魅力的な男性像を作り上げていました。ユーリを口説くシーンでは、彼女がなぜなびかないのかと地団太を踏んでしまうくらい。

 

ネフェルティティ(演・澄輝さやと)あとになって、しみじみと思い出される印象深い演技は、澄輝さんのエジプト王太后ネフェルティティ。世界史の教科書でお馴染みの、有名な片目の胸像のモデルとなった女性です。

少女の頃の純粋な心を捨て、敵国でただ権力のみを己の糧として生きて来た女の強さと悲哀。その物語が観客の心を掴んで離しません。

短い出番であったにも関わらず、彼女の演技からは、自分の力で権力の座に上り詰めてきたであろうネフェルティティの、何年もの孤独な戦いの歳月を感じ取ることが出来ました。それだけ深い役作りをされたのだろうと思います。

ただ、惜しまれたのは、この大作を一幕ものとして上演してしまったことです。 

大作漫画の世界観を、1時間35分の舞台に押し込めてしまうのはあまりに惜しい。これほど見応えのある作品ならば、一本仕立ての二幕ものにしても、じゅうぶんにチケットが捌けたはずなのにと思えてなりませんでした。

実際、原作の名シーンが幾つも削られており、尺の都合で筋書きが変わっていたのも事実。せっかく素晴らしい作品を舞台化するのであるから、その魅力をじゅうぶんに見せられる形を追求すべきだったのではないだろかと、思えてなりませんでした。