わたしが舞台を好きなわけ

観劇した舞台の感想や自分なりの批評を書き綴るブログです

理解を超えた「誇り」と「愛」~宝塚花組「金色の砂漠」~

上田久美子の作品は、二度見なければ分からない―‐。

「金色の砂漠」は改めて、そう思わされた物語でした。

 

「神々の土地」で彼女の生み出す世界観の虜になってしまった私。その私が、真っ先にブルーレイを借りて手を出した上田作品が、この「金色の砂漠」でした。

 

 正直なところ、初見時の感想は「神々の土地」ほど熱狂的ではありませんでした。

奴隷として育てられたが実は前の王家の血を引く王子。彼が自分の出自を知り、放浪の辛酸を嘗めた末、復讐を果たす…どこかの国の伝説にありそうな設定、とさえ思ってしまったものです。

 これは、エンターテインメント重視の作品なのだろうか。

 そう思っていた本作への評価は、しかしもう一度見返した時にがらりと変わりました。

 

 「相手を支配したいという愛と、相手の幸せを願う愛」。

 

 このテーマに、なんと忠実な作品だろう。そう思ったのです。

そしてもうひとつ、作品の根底を貫くテーマは誇り。主人公ギィとヒロイン・第一王女タルハーミネは、ともにあまりにも誇り高い人間です。その高すぎる矜持が自らを縛り、愛を素直に表せない。ギィは奴隷でありながら、プライドを捨てられぬ人物としてはじめから登場します。王女の前でも一人の男としてあろうとする誇り高さ。王女も自らも同じ人間であるとの意識。それが、タルハーミネが自分を見下すことへの怒りに満ちた愛となって噴き出します。

一方、タルハーミネのギィを烈しく拒むような目線、挑むような口調もまた、高いプライドゆえに素直になれない愛情の裏返し。彼女は心の奥底でギィに惹かれながら、その事実を認めまいと必死に取り繕う。誇り高さゆえに、自分自身のほんとうの気持ちにさえ目を向けられない。ギィと一夜を共にした後、婚約者テオドロスに「まさかあの奴隷を愛していたのか」と詰め寄られ、愛してなどいないと叫ぶシーンはまさに象徴的でした。

だからこそ、最後に息絶える時、愛を叫び、奴隷を愛した自らを受け容れるタルハーミネの台詞が胸に迫ります。すべてを棄て、命の瀬戸際に立たされてしか愛を口にできない。そんなタルハーミネの傲慢ともいえる気高さを、花乃まりあさんは十二分に表現していたのではないかと思います。

 タイトルの「金色の砂漠」、それは互いが誇りを捨て、愛に向き合える心の境地を指していたのかもしれません。

 上田作品は「冒頭のシーン」に意味あるものが多いと感じますが、この「金色の砂漠」もまさにそう。

冒頭、砂漠に行き倒れた二つの骸は、物語のラストで折り重なるようにして息絶えるギィとタルハーミネを暗示します。

舞台で物語られることは全て過去であり、死んでしまった魂たちの幻。

そんな幻のような恋物語に、砂塵に包まれた古代の王国という設定は、ぴたりとはまって見事です。

 最後に。「金色の砂漠」は他の上田作品—-例えば泣けると話題となった「星逢一夜」のようなーーに比べれば、好みの分かれる作品であろうと感じます。

 主人公とヒロインはともに激情家。ふたりが相手に抱く愛は、誇り高さゆえに複雑で、憎しみと絡み合って屈折している。ストレートな恋情と違い、なかなか理解しうるものではありません。

ふたりに対比されるように描かれる、第二王女ビルマーヤと、彼女に仕えた奴隷・ジャーの穏やかな愛情に親しみを覚えた人は多いでしょう。

一方、ギィとタルハーミネの、憎しみと紙一重の愛というものは、常人に推し量るのはあまりに難しい。

 しかしその理解を超えた愛を描き出したところに、私はこの作品の意義を感じます。宝塚歌劇としては、すこし挑戦的な作品。けれど挑戦的であるからこそ、この上なく魅力的な作品でもあると思うのです。