わたしが舞台を好きなわけ

観劇した舞台の感想や自分なりの批評を書き綴るブログです

名も無きものへの鎮魂歌 ~ミュージカル刀剣乱舞「東京心覚」~

見終わって、呆然とする。

作品の美しさに、世界観に、あるいはメッセージに打たれて、しばらく息ができない。

そんな演劇に出会ったことはありませんか。

この5月に大千秋楽の幕を下ろした、ミュージカル刀剣乱舞「東京心覚」は、私にとって、そのような舞台でした。

 

私はもともと、東宝系のグランドミュージカルや宝塚を観劇してきた人間です。

その反面、普段ゲームやアニメに触れる習慣がなかったので、いわゆる「2.5次元舞台」とは全くご縁のない人生を送って来ました。

けれど、昨年のコロナ禍でたまたまこの「ミュージカル刀剣乱舞」の無料配信と言うのを見て、ひとりの歴史好き、演劇好きとしてその脚本に惚れ込んでしまいました。

皆まで言わない、観客に答えを委ねる。そういう奥行きの深い物語が好きになり、原作を学び、とうとう本公演のチケットを取りました。

 

 

見えないもの、残らないものは存在しないのではない。

たとえ見えなくとも、確かにそこにあるのだ。あったのだ。

 

 

「東京心覚」はそんな強くとも優しいメッセージに貫かれた物語。

歴史を愛し、言葉で語られない感情表現を好む私にとって、これほど深く魂を揺さぶられた舞台はありませんでした。

 

 

 

1、コロナが無ければ生まれなかった物語

「東京心覚」は間違いなく、新型コロナウイルスの流行が無ければ生まれなかった物語。

昨年の4月から5月。1度目の緊急事態宣言で、無人のようになった東京の街。

その異様な静けさの中で、この物語の原案が生み出されたと聞きました。

 

物語にはたくさんの「線」が登場します。

舞台上に時間遡行軍が引いて行った「線」。

誰かが使うからこそ意味を持つ、文字という「線」。

江戸の町を怨霊から守るために引かれた結界の「線」。

そして眼に見えないウイルスによって分断された「線」。

 

私たちが生きるいまは、ソーシャルディスタンスが声高に叫ばれ、ひととひととの距離が遠ざかってしまった社会。

だからこそ、舞台上に繰り返し立ち現れる「線」は、観る者の心をざわつかせます。

東京心覚はいま、この時代だからこそ意味を持つ、稀有な物語だと言えるでしょう。

 

物語の冒頭。スクリーンにビル街や信号機が映り、自動車のエンジン音や横断歩道の音響信号、雑踏の音が劇場を包み込みます。

その街並みに佇んで、

「ここが、東京…かつて、江戸だった場所」

と呟く水心子正秀(すいしんしまさひで)。

そのとき彼が見たものは何だったのでしょう。

作品内では明言されていませんが、彼の眼に映ったのは、新型コロナウイルスにより、当たり前の生活を奪われ、分断された世界だったのではないかと思います。

そしてその光景を見た時から、彼の胸の中に「これは守るべき歴史なのか」という迷いがうまれた。

その迷いに呼応して、東京という土地の持つ記憶が彼に流れ込んできて、ひとりでに語り始める…。

だから、この物語の起点は、コロナ禍の日本…。

解釈は多々ありますが、私はこの物語をそのように捉えました。

 

 

2、繰り返される主題~歴史の中で忘れ去られた存在。~

歴史と言うのは、いつだって勝者が語るもの。

敗れた者、あるいは声をもたないものは、その記録の中からこぼれ落ちていく。

ならば彼らははじめから歴史に存在しなかったのか。彼らの行動は意味のないものだったのか。

いや、決してそうではない。

おそらくこれが、この作品を貫くテーマだと感じます。

 

「名もなき者」「歴史に名を残さなかった者」

これは伊藤栄之進先生の描く、ミュージカル刀剣乱舞の脚本に繰り返し現れるテーマです。

例えば「刀の時代の終焉と、近代日本の黎明」を一発の銃声に託して描いた2017年の公演「結びの響き、始まりの音」。

この物語では、「名もなき者」=物語(逸話)を持たぬ存在 がきわめて重要な意味を持ちました。

記録からは零れ落ちてしまった、数多の存在。

名も無き誰かを掬い上げよう、という思いが、作品から強く感じられました。

その思いをより踏み込んで、強いメッセージとして提示してきたのが今回の公演「東京心覚」だったのではないでしょうか。

 

「東京心覚」には、能面をまとい、一言もせりふを発しない少女が舞台上に繰り返し現れます。何かを言いたげに、けれど声を発することなく舞い踊る少女。この少女と言う演出は、歴史の陰にある、数多の「名もなき声」を表現する存在でしょう。だから彼女には名前が無く、顔が無い。

それは同時に、歴史の中だけでなく、現代を生きる、決して名を成したわけではない数多の群衆、つまり「私たち」の人生や存在を肯定するメッセージ。

 いまここで、懸命に生きる全てのものへのあたたかなエール。

それが、この物語の根幹にある「思い」なのだと感じました。

 

 

3、“問わず語り”の優しさに包まれて。

優しくも確かなメッセージに貫かれた「東京心覚」を象徴するのが、芝居のエンディングを飾るナンバー「問わず語り」です。

8振りが優しく歌い上げるこのナンバーは、まさに生きとし生ける全てのものに捧げられた讃歌。作品に込められたすべてのメッセージが詰まったミュージカルナンバーだと感じます。

 

誰もいなくても 大地はそこにある
誰もいなくても 空はそこにある
誰もいなくても 風は吹き荒れる

でも誰かがいなくては 歌は生まれない

誰もいなくても 日は昇り沈む
誰もいなくても 時は止まらねえ
誰もいないなら 探しにゆこう
誰かがいる風景 誰かといる景色

 

口ずさむたびに、目の前の視界が開けてゆくような美しい言葉に彩られた歌詞。

 

 

そしてそれを、観客に押し付けるのではない。最後に「これは問わず語り 聞いて欲しかったひとりごと」と言い置いて、そっと舞台を去っていく。

なんと美しい終わり方なのでしょう。

 

「問わず語り」の穏やかな旋律を聴くと、私は胸がいっぱいになってしまいます。劇場でこの曲を聴いた時、天から降り注ぐ音を聞きながら、温かな何かに心を包まれているような感覚になりました。

 

私たちはまだ生きられる。いや、生きていよう。

 「東京心覚」は、そんな希望の灯を胸に灯してくれる作品でした。

 

4, キャスト別感想

 《キャスト別感想》

(新々刀と三池派の感想が多く、江派はやや少なめです。めっちゃ頑張って書いたのではじめの方だけでもぜひ読んで行って!)

 

水心子正秀(すいしんしまさひで/演・小西成弥)

物語の冒頭に姿を現すのも、物語の最後を締めるのも彼。ミュージカル刀剣乱舞は「主演」が存在しない作品ですが、本作では水心子が事実上の主役だったと感じます。彼が“東京”をテーマにしたこの作品の主軸を担うのは、江戸で生まれ、江戸で打たれた刀であるがゆえでしょうか。

いつだって肩に力の入った、気負いの見える話し方。新々刀であるがゆえの「若さ」が滲む思考や振る舞い。その青臭さこそが、水心子正秀という役の魅力でもあります。 「コロナ」という単語こそ登場しませんでしたが、今の情勢を暗に指して、「人々がこんなに苦しい状況に置かれる歴史」を「なぜ守らなくてはいけないのか」というストレートな疑問をぶつける芝居に、生真面目で正義感が強い水心子らしさが現れていたと感じます。

終盤、歴史を遡り、歴史上の人物たち問いを投げかける水心子。あの役割は、真面目でひたむきで、いつだって懸命な水心子だからこそなし得た全身全霊の「問いかけ」だったのだと感じます。

「新々刀の誇りにかけて」

そうきっぱりと言う時の、水心子の真っ直ぐな眼差しが好きです。己の役目に、誰よりも忠実にあらんとする曇りのない姿。「水のように清」い、澄んだ心を持つ彼だからこそ、この優しい物語の主人公となりえたのでしょう。おそらく「水心子正秀」という役を演じる上で一番大切なのは、整った容姿でも、歌や殺陣のスキルでもなく「眩しいほどのまっすぐな心」なのだと思います。誰かに寄り添おうとする心。誰かを助けたいと思う心。

演じられた小西さんは、この作品に関わる責任の重さをたびたび口にされていました。演じ手の必死な思いと、すこし気負って背伸びをした水心子正秀という役柄。そのふたつが見事にシンクロした瞬間を見ることが出来たように思います。特に千秋楽は、よい意味で小西さん自身と役との境界が薄くなっていたように感じました。

 そうして水心子正秀という役は、本作にとってこちら(客席)とあちら(舞台)とを繋ぐ存在でもあります。物語の終盤、劇場に「来れなかった人」「来ることを諦めた人」に向けて、「悔しかっただろうね」「君の決断を尊重するよ」と直接呼びかける水心子。

 「結界は、人の心の中にしか存在しない」というせりふを、身を振り絞るようにして叫んだ時、そこには役を超えた強い熱情が感じられました。

 

源清麿(みなもときよまろ/演・佐藤信長)

水心子の相棒にして親友。「寄り添うこと」「見守ること」に徹した役柄。彼が主体となってなにかをするシーンはひとつもないというのに、そこにいるだけで安心感があり、確かな存在感がある。お芝居としては名脇役とでも言うべきでしょうか。その塩梅が、刀剣男士・源清麿として本当に絶妙な役作りだったと感じます。

作品パンフレットのインタビューで、清麿役の佐藤さんは「水心子正秀は堅実な努力型で、源清麿は天才型」と述べています。彼の作る清麿像は、自然体でそこに立っていて、ふわりと周りに溶け込む。そんな雰囲気を感じます。

彼にとって親友の水心子はどんな存在なのでしょう。

どこまでも一対一で対等な相棒。私にはそんなふうに感じられました。源清麿は、水心子が傍で悩んでいることを察しても、そこに土足で踏み入るような真似をしません。「水心子、なにか僕に出来ること、ある?」と問いかけるシーンがありますが、水心子がためらいを見せると「そっか」と言って引き下がる。決して自分から手や口を出そうとはしないし、結論を急いで求めようともしない。そこに、親友を一振りの対等な相手として信頼し、尊重し、一歩引いて見守ろうとする源清麿の優しさが滲み出ています。

 二人が歌うミュージカルナンバー「ほころび」がとても好きです。

「水清ければ魚棲まず それでいい」と歌う水心子に、「魚も棲むかもしれないよ」と声をかける源清麿。自分の素を隠し、少し無理をして生きながら「それでいい」という言葉で他人に一線を引いてしまう親友に対して、そっと“希望”を歌いかける。そうして、「隣でいつも見ているよ」と声を重ねる。そこに、長い時間を共にしてきた水心子と清麿の絆の深さを感じます。

誰かに寄り添うこと。そばで見守ること。それはこの作品のテーマにもつながる行為であります。その意味で、源清麿の在りようは、「東京心覚」という物語を象徴する役どころなのかもしれません。

 

大典太光世(おおでんたみつよ/演・雷太)

大典太光世は、「刀剣乱舞」で私が一番好きな刀剣男士です。数々の逸話を持ち、それ故に人から恐れられ、長らく蔵に封印されてきた霊刀。人間の都合で封じ込められてきた彼に、過干渉家庭に生まれ、自由を奪われて生きて来た私は、知らず知らず自分自身を重ね合わせて見ていました。そして彼の孤独な魂に、深い諦めに閉ざされた心に、不器用な優しさに、人知れず深く共感し、心を寄せて来ました。

だからこそ、この大典太光世という刀がミュージカルでどのように描かれるのか、私は発表があった時からずっと注目していたのです。

「東京心覚」の大典太光世は、臆病さや繊細さといった面よりも、凄まじい霊力を持つ刀という面に焦点を当てて描かれているように感じます。それは、重戦車のような殺陣に最も端的に表現されていると言えるでしょう。はじめて観劇した時、最も印象に残ったのは、凄まじい打撃力を感じさせる彼の殺陣でした。腰を低く落とし、刀を真上から振り上げて斬る。或いは勢いよく刺して敵を引きずる。圧倒的なパワーを感じさせる、男らしく荒っぽい戦いぶり。まさに天下五剣の真価を見た思い。大典太光世の殺陣からは、その称号にふさわしい強さが余すところなく感じられました。

同時に、彼が抱える、あまりに強すぎるがゆえのジレンマをひしひしと感じました。「持て余した強さ それは最早呪い」と彼が歌い上げる場面がありますが、大典太光世にとって「強さ」は人間から恐れられる原因であり、己を縛る枷であったに違いありません。彼にとって強いことは誇るべきことではなく、いつだって厭わしいことだったのだと改めて思わずにはいられませんでした。

 又、大典太の、兄弟刀・ソハヤノツルキに対する関わり方が素敵でした。大典太は決して口数が多くない、陰鬱な空気を身に纏っている役どころです。それでもソハヤノツルキに対しては、時にからかって見せるような場面さえある。そこに、心を許した、気の置けない間柄と言う兄弟関係が表れています。

そして、弟刀が精神的に動揺している時には、何を言うでもなく傍に寄り添い、見守る。そんな演技に、二振りがまぎれもなく兄弟であることを感じさせられました。個人的に好きなのは、南光坊天海が息を引き取った時、それを見てなにも言えなくなってしまったソハヤノツルキに「入寂だ」とたったひとことだけ声をかける場面です。慰めるわけでも諭すわけでもない。ただひとこと、そっと事実を告げる。そこに、大典太光世の分かりにくくとも確かな優しさを感じます。

天海に向き合うこと、天海を看取ること。それは徳川家康と共に在ったソハヤにとって心穏やかにはいられないことのはず。その時なにをするでもなく共にいてやるところに、彼のこころを感じ取ることが出来ました。

 口数が少なく、誤解されやすい。陰鬱でダークな雰囲気を身に纏う。そのような役どころを舞台上でどう表現するのか。幕が上がるまで、私はずっと気になっていました。しかし幕が開けてみれば、あまりに的確に大典太光世の本質を捉えた演技に唸らされました。

この難役を、見事に演じてくださった雷太さんに深く感謝をしたい思いです。

 

ソハヤノツルキ(そはやのつるぎ/演・中尾暢樹)

弾けるような明るさと、その裏にあるわずかな翳り。ソハヤノツルキの持つふたつの面を、しっかりと表現した演技であり脚本だったと思います。大典太光世とソハヤノツルキは「陰と陽」に例えられがちな間柄であり、ともすればソハヤノツルキは太陽のような明るさを持つ役と捉えられがちです。しかし、彼の本質は、徳川家康の佩刀として、300年の長きにわたり、久能山東照宮墓所に納められていた逸話。長い間、日の光を見ることも、刀の本分として振るわれる機会もなく、棺の側で守護の役割を果たしていた事実です。そのような来歴を持つ彼が、人の姿を取るならば、ただ明るいだけの性格であるはずがない。

むしろ、仄暗さを抱え、それを明るい振る舞いで覆い隠していると考えるほうが理にかなっているでしょう。そしてソハヤノツルキを単なる明るい刀とは書かず、その陰の部分をきちんと描いたことで、役としての深みが段違いだったと思います。中尾さんも、ソハヤの持つこの多面性を掘り下げた役作りをされているように感じました。

 「徳川の守護」という祈りを込められた刀である彼が、上野戦争江戸幕府の崩壊を目の当たりにした時「三百年保ったんだ」とあえて明るく言おうとする気丈さ。南光坊天海の死を見届けるまなざしの切なさ。そのような演技の端々から、彼の心の揺らぎを感じ取ることが出来ました。

 

豊前(ぶぜんごう/演・立花裕太)

「忘れ去られてしまったものは、存在しなかったことになるのか?」というテーマに貫かれた「東京心覚」。この作品において、重要文化財でありながら実物が「所在不明」である豊前江を出したことに意義を感じます。

「存在しているのかしていないのか、俺だって自分のことがわからねえ」「でも誰かに憶えてもらっているうちは、存在しているってことだよな」。このようなせりふは、豊前江という役が口にするからこそ重みを持ち得ると思うからです。

 やはり豊前江で特筆すべきは、太田道灌とのシーンでしょうか。どんなに彼と仲を深めても、最後には、史実通り死んでもらわなくてはならない。ともすれば、自分が手にかけなくてはならない相手。そう理解していながら、彼と向き合い、語らい、城作りの手伝いをする豊前江。「知りもしねえで殺したくねえんだ」ときっぱり言い切る豊前江。

 太田道灌を斬った時の、一切の感情を封じた演技は強く印象に残るものでした。感情を振り捨てて役目を果たす。けれど感情を失ったわけではない。そんな豊前江の「こころ」が、立花さんの演技からひしひしと伝わってきました。

ぐっとくるのは、自分が斬った太田道灌の亡骸を覗き込み、その眼をそっと閉じてやる場面です。そして傍らに立つ五月雨江に「この人にも、何か歌ってやってくれないか」と弔いの歌を求める。その振る舞いに、刀でありながら人間らしく死を悼もうとする、豊前江の優しさが滲み出ています。

 

桑名江(くわなごう/演・福井巴也)

私にとって桑名江は、どこかつかみどころのなさを感じさせる役です。恥ずかしながら、まだ彼のキャラクターというものを十分理解しきれていないのですが、彼が「誰もいなくなった世界」をたった一振りで耕す姿に心が揺さぶられました。

彼が耕していたあの世界は、いったい何だったのでしょう?インターネットには様々な考察が上がっていますが、正直なところ私には答えが出せませんでした。ただ薄ぼんやりと、歴史を守った果てに辿り着く未来なのかもしれないと想像するだけです。

桑名江の一番好きなせりふは、「いいねえ山吹!ここを一面の山吹畑にしよう」です。人がいなくなり、全てが忘れ去られたような世界と言えば、私たちは絶望しか感じない。だからこそ、彼の、なんの迷いもなく山吹の花を植え、育てていこうという振る舞いに心を動かされるです。

ひりひりするほどのメッセージ性に満ちたこの作品において、桑名江の(良い意味での)マイペースさは、物語にとって大きな救いになっていたように思います。

 

五月雨江さみだれごう/演・山崎晶吾)

クールで感情を表に出さない、そんな役どころという印象を受けました。時々口元を黒いストールで覆う動作は、感情を隠したいという思いの表れでしょうか。余計なことは言わない役。太田道灌の詠んだ歌の意味を豊前江に問いかけられた時、「やめておきましょう」「言わぬが花の吉野山、です」とすう、と引いてしまうところにも、余韻や風情をたいせつにする彼らしさが表れていますね。

五月雨江が、太田道灌とふたりで声を重ねて歌う場面が好きです。

「人は何故 歌うのだろう。

 心に留めておけぬから

  雲から溢れ零れ落ちる雨の如く」

歌詠みの真髄に溢れた、美しい歌詞と旋律だと思います。

松尾芭蕉を敬愛し、歌心のある彼は、「だれかのうた」に彩られたこの物語に不可欠な存在だったのではないでしょうか。

そして演技と言う面で目を引いたのは、他の役とは明らかに違う五月雨江の「動き方」。殺陣にも動作の一つひとつにも、「忍び」という設定が良く活かされていたように思います。

 

村雲江(むらくもごう/演・永田聖一朗)

「正義とか悪とか興味ない。どうせ勝ったほうが正義なんだろう?」。登場ナンバーでそう歌う村雲江は、すこし投げやりな発言とは裏腹に、真実を見る目を失わない刀だと思います。

 分からないことは「どうして」「なんで」と口に出して聞く。時々、こちらがはっとするような言葉や、鋭く盲点を突く言葉を投げかけてくれる。そこに彼が、しっかりと自らの芯を持ったキャラクターであることを感じます。

村雲の台詞は、時に観客の疑問を代弁し、観る者の助けになってくれたのではないでしょうか。

一番心に残ったのは、「線なんて引くから、あっち側とこっち側で分かれちゃうんだ」という台詞。

 人間が引いた線や価値観がどれほど一方的であるのか。それは、人間によって「二束三文」という価値観を押し付けられた経験のある彼の言葉だからこそ説得力があり、響くものがありました。

 

 以上、私の理解度に応じてボリュームが変わってしまいましたが、メインキャスト8人について思いを語らせて頂きました。