わたしが舞台を好きなわけ

観劇した舞台の感想や自分なりの批評を書き綴るブログです

”失敗”に向き合うということ ~ミュージカル刀剣乱舞「江水散花雪」~

※注意※
・以下の内容は上演中の作品のネタバレ、台詞バレを含みます。
・「山姥切国広」に関する感想は筆者の解釈がかなり入っています。


どんな世界でも、「常に挑戦を続ける」ことほど難しいものはありません。
しかしミュージカル刀剣乱舞はそんな常識を吹っ飛ばし、「常に攻め続ける」コンテンツ。毎回毎回予想を超えて、「今までに無かった何か」を見せてくれる。“想像通り”であったことが一度もありません。

今作「江水散花雪」は、「任務の失敗」を描いた異例の作品。
出陣した6振りは、歴史改変を止めることが出来ず、撤退を余儀なくされます。


物語の王道と言えば、力を合わせて困難を乗り越えるとか、何かを成し遂げるといったストーリー。しかし敢えて「失敗」を描いたことで、これまでの刀ミュにはないインパクトがありました。
そして単なる失敗の物語ではなく「全員で無事に帰還する」というドラマを描くことで、物語としても楽しめるものになっていたと思います。

いつものように全振りへの愛を込めた感想を。

 

 

和泉守兼定(いずみのかみかねさだ/演・有澤樟太郎)
成熟と成長。今作において、彼ほどこの言葉が似合う役はいないでしょう。
かつての主の死を看取り、刀の時代の終わりを見届けて。
全てを飲み込み、一回り大きくなった和泉守兼定が帰ってきました。
少々短気で喧嘩っ早い所も彼の魅力ですが、今作でそんな姿は封印。仲間たちの精神的支柱となっているさまが見て取れます。
「江水散花雪」の和泉守兼定は迷いも揺らぎもしません。それどころか、仲間を気遣う余裕と包容力を身に着けて、私たちの前に現れます。
彼の魅力が光る場面は、岡田以蔵を斬り、精神的に動揺している肥前忠広への声掛けでしょうか。ただならぬ表情で立ちすくむ肥前を見ただけで、かつての主を手に掛けたのだな、と察する和泉守。そして「泣けよ」と声をかけ、その体を支えてあげる底抜けの優しさ。
「結びの響き~」では土方歳三を斬れず、その死にただ泣くだけであった彼が、同じ境遇に陥った仲間を抱擁する。その姿に、胸を打たれます。
座長、そして最年長として公演を率いる役者の立場と、修行を経て成長した和泉守兼定の余裕。そのふたつが見事にシンクロした和泉守兼定でした。

 


山姥切国広(やまんばぎりくにひろ/演・加藤大悟)
「罪の十字架を背負う役」。
本作の山姥切国広から、私はそんな印象を受けました。
人の身を得てから長い時間を過ごしてきた本丸の“古株”。それでいて積極的に前には立たず、どこか厭世的な雰囲気を身に纏って“余生”を送っている…。
このように物語られる山姥切国広像は、これまでに無い、斬新な設定ではないでしょうか。
山姥切国広と言えば、作り手の異なるストレートプレイ「舞台 刀剣乱舞」の看板となる役。しかしミュージカル刀剣乱舞はそのイメージとは一線を画す、全く新しい「山姥切国広」像を提示して来ました。
彼は言います。


「俺はもうあの時のような思いはしたくない」
「俺に隊長を語る資格は無い」
「俺は仲間を無事に本丸へ帰してやることが出来なかった」


山姥切の語る過去について、直接的な回想はありません。それでも彼のせりふを拾い、繋ぎ合わせれば、どんな過去があったかを想像するのは難しくないでしょう。
「初期刀の歌仙兼定がある出陣中に折れた。そしてその時隊長として部隊を率いていたのは山姥切国広だった」
自然と、そのような憶測が成り立ちます。その“折れた”理由が審神者の采配ミスなのか、山姥切国広自身の失態だったのか、はたまた他の原因なのか。詳しいことは分かりません。
けれど間違いがないのは、山姥切自身が、そのことについて自責の念に駆られていることです。自責の念に駆られ、心の奥底に死に場所を求める気持ちを持ち続けていることです。
山姥切国広は元々影のあるキャラクターですが、そこに“諦念”や“生への執着の薄さ”という雰囲気を身に纏うことで、より浮世離れした美しさを醸し出していたのではないでしょうか。
折れたと思われる初期刀と、山姥切国広は、いったいどのような間柄だったのでしょう。
「これで俺も、ようやくお前の元に行ける」
「すまんな、お前に会えるのはもう少し先になりそうだ」
これらのせりふからは、単なる同僚を越えた、強い絆の関係であったことが伺い知れます。だからこそ、その大切な存在を、自分のせいで喪った(と考えられる)事実が許せないのでしょう。
そう言えば、本丸の古参だと名乗りながら、彼は修行の旅に出る気配もありません。
その身に纏う汚れた布は、彼にとって、仲間を連れ帰れなかった罪を象徴する「十字架」なのかもしれません。

余談ですが傘貼りの内職をしているシーンが大好きです。

 


大包平(おおかねひら/演・松島勇之介)
眩しいくらい真っ直ぐで、どこまでも誠実。
男らしく誇り高い大包平は、今作の登場刀剣で、私が一番好きな存在です。
呆れるほど生真面目で正直。そんな性格は、描き方によっては、“思慮が浅い”という誤解を招きかねません。しかし大包平という役を「声の大きな馬鹿」ではなく「責任感のある雄々しい隊長」として描き、彼の本質を浮かび上がらせてくれたことに、脚本への深い信頼を感じます。
彼は頑固で誠実です。隊長という立場に重すぎるほどの責任感を持ち、ばらばらな隊をなんとかまとめようと四苦八苦する。決して与えられた役割を投げ出さず、困難に真正面からぶつかる。まさに隊長にふさわしい器量を備えた刀だと思います。
山姥切国広を助けるために戻って来るシーンは、まさに彼の真骨頂。
「全員無事に帰すのが、隊長の役割と言ったのは貴様だろうが!」
これは大包平にしか言えない最高の台詞ではないでしょうか。
そして雄々しいだけでなく、彼は優しい刀でもあると思います。
南泉一文字が井伊直弼を斬り捨てた時。その亡骸を地に横たえるため、真っ先に駆け寄って手を貸したのは大包平でした。

 


小竜景光(こりゅうかげみつ/演・長田光平)
色っぽくミステリアス。捉えどころのない風来坊。
小竜景光は、本気で内面を描いたら一番役作りが難しい役だと思います。
楠木正成を筆頭に、多くの人の手を渡り歩いて来た名刀。
それ故に、ひとりの人、ひとつのことに執着し、深い関わりを持つことを避けて来た。私は小竜景光をそんなふうに見ています。
自らを旅人と自称し、謎めいたたたずまいを崩さないのは、多くの人の手を歩き、多くの別れを経験してきた彼なりの「心の守り方」ではないか。私はそう思っています。
今作、小竜景光は一時は自らの主であった井伊直弼ではなく、吉田松陰の傍にいる道を選びます。「(かつての主を)違う角度から見てみたかった」と彼は言いますが、敢えて井伊直弼から物理的距離を取ったのは、彼が相手に「踏み込んで傷つく」こをを避けたからではないかと感じました。
桜田門外の変を目撃した後の、「なんてことないよ、たくさんいた、主の一人さ」というせりふにも、つとめて他人に深入りしまい、とする彼の気持ちが感じられます。
しかし、深入りしまい、と思うことと、実際に感情を持たないことは違います。井伊直弼の亡骸を見て倒れそうになった。それ自体が、彼の動揺を示す動かぬ証でしょう。
言葉とは裏腹に、優しく繊細な心を持っている。その心を、捉えどころのない言葉で覆い隠して生きている。それが小竜景光のほんとうの姿なのではないでしょうか。
元主の亡骸に敬礼する小竜の姿は誠実で、彼の心の在処が伺い知れました。
複雑で多面的な小竜景光は、役者にとって実に演じ甲斐のある役だと思います。いつかは彼を主人公にして南北朝時代を描き、その内面に深く切り込み、炙り出すような物語を見てみたい。刀ミュさん、期待しています。

 


南泉一文字(なんせんいちもんじ/演・武本悠佑)
ミュージカル刀剣乱舞には、決まって純粋すぎる心がゆえに苦しむ刀が登場します。
源義経を慕うがあまり、己の使命を忘れかけてしまった今剣。
沖田総司を一途に思い、その命を助けたいとの葛藤に悩んだ大和守安定。
人間の兄弟に感情移入してしまった浦島虎徹
そして今作においては、その役どころが南泉一文字だったと思います。
戊辰戦争が起きず、平和裏に大政奉還がなされた歴史を見て、「この歴史が続けば、これから先の世界は、もっといい世界になるかもしれないじゃねえか」と言える南泉。
肥前や山姥切に取り縋って、井伊直弼を「殺さないでくれ」と叫ぶ南泉。
擦れたところのない、彼のまっすぐな心は、「放棄された世界」というおどろおどろしい結末に行きつく今作に置いて、確かな清涼剤になっていたと感じます。
そして何より、彼は可愛がられるということに馴れているように思います。
井伊大老を「おっさん」と呼び、ぞんざいな態度を取ってもなお許されるのは、南泉が持つ可愛げの故でしょう。
井伊直弼の亡骸に、そっと花を手向けることの出来る彼の優しさが大好きです。

 

 

肥前忠広(ひぜんただひろ/演・石川凌雅)
人斬りの刀。それが肥前忠広を肥前忠広たらしめるアイデンティティです。
ぶっきらぼうな口調と擦れた眼差し。
歴史が改変され、皆が対処に悩む中、肥前は真っ先に、「死ぬべき人を殺していく」という道を選びます。「人を斬る」ことによって自分の役割を果たそうとする。それが彼にとって自然な「在り方」なのでしょう。
そんな彼が、かつての主・岡田以蔵と出会ってしまった時に見せる心の揺らぎは見せ場です。斬りかかって来る以蔵に対し、はじめ肥前は刀を抜きません。何度も抜かずにかわし、そして我慢できなくなった時、爆発したように鯉口を切る。
岡田以蔵を斬った後、こらえきれずに涙する場面も印象的でした。
和泉守兼定に抱えられて立ち上がると、それでも自分の足でしっかりと歩こうとするところに、肥前の意思の強さを感じました。