わたしが舞台を好きなわけ

観劇した舞台の感想や自分なりの批評を書き綴るブログです

未完の王道ミュージカル~東宝「レディ・ベス」~

観劇:2017年12月

※脚本に辛口な感想です。

 

 クンツェとリーヴァイならもっと出来るはずだ。

 一言で表せば、そういう物足りなさを感じた公演でした。

 

 もちろん、評価に値する部分も数多くありました。

 羅針盤や星空を思わせる舞台装置の神秘的な美しさ。違和感なくスムーズな場面転換。役者たちの熱演。

 ただ、それだけに、物語の深みの足りなさがどうしても目立ってしまったように思います。

 

 ミュージカル「レディ・ベス」の課題はまず、一にも二にも唯一のオリジナルキャラクター・ロビン=ブレイクの造型にあるように思います。

 流れ者の音楽家ロビンが、チューダー朝の王女と出会い、恋に落ちる。その展開が余りにもおとぎ話的で、物語に没頭することができませんでした。

たとえば二人の出会いのシーン。馬車が故障した森の中で出会う、というのは余りにステレオタイプ的な展開のように思います。

 一般的に、舞台は、小説よりも単純な設定が使われても違和感が出にくいもの。けれどこのシーンには、首をかしげざるをえませんでした。

 またその後、庶民のロビンがベスの邸に簡単に入り込めるのも、ベスが邸から容易に抜け出せるのも、「主人公補正」の感が強く、あらゆる物語で幾度となく繰り返されてきた構図という感がぬぐえません。

 何より、ロビンという人物が、どんな過去を持ち、どんな経験を得て流れ者の音楽家になったのか、といった背景がまったく語られないことが、役としての彼を曖昧にしてしまっているように思いました。実在した他の登場人物に比べ、彼だけがどこか浮いているように感じられたのです。

 物語の都合上、エリザベスにそれまで知らなかった世界を見せてくれる存在が必要なのは分かります。しかし諸国を放浪する下層民と王女、まったく異なる環境で育ち、まったく異なる価値観を持つはずの二人が、出会った途端、互いに惹かれ合う構図は余りにも唐突過ぎないかと思いました。

 せめて二人が心を通わせ合う過程が丁寧に描かれていたならば、もっと説得力があったのかもしれません。

 なぜベスはロビンに、ロビンはベスに惹かれたのか?役者の素晴らしい熱演を持ってしても、二人の感情がくっきりと見えづらいのは、脚本に深みと広がりが足りないからではないでしょうか。

 深みと広がり、と言えば、敵役メアリーの描き方にも、同じような思いを抱きました。

 ベスの前に立ちはだかる異母姉のメアリー。

 歌声・演技力・存在感は主役を食うほど素晴らしいのですが、ストーリーの都合上、異母妹いじめの単純な悪役と化している感は否めません。

 最も惜しむべきは、孤独な己の心情を吐露する最後の登場場面です。自分だって苦しかった。父に見捨てられ母と引き離されて孤独だった、というメアリーの台詞に、なぜか感情移入しきれない自分がいました。メアリーには、メアリーなりの言い分があり正義があった、という部分が脚本からはっきりと見えてこなかったためです。

 

 たとえば私が演劇の虜となったきっかけの公演、宝塚宙組の「神々の土地」を比較に挙げてみましょう。

 この作品には、頑なに周囲を撥ね退け、霊能者ラスプーチンに心酔し、政治を乱す皇后アレクサンドラが登場します。物語の終盤、アレクサンドラには観客の前で自分の思いを吐露する場面があります。

 ドイツから嫁いできて、孤独だった彼女が何を思い、何を守ろうとして生きて来たのか。どうして心を閉ざしたのか。そのきっかけが切々と語られる。

 アレクサンドラの告白は、実に真に迫った、聞く者の心を動かす台詞で、観客は彼女には彼女の言い分があり、正義があったのだと身に沁みて感じます。

 けれど「レディ・ベス」のメアリーには、そのような見せ場が足りていませんでした。

 「神にすがるために新教徒を弾圧した」

 メアリーのそんな台詞からは、神に頼らずにはいられなかった彼女の脆さと、救いを得るために、異端を激しく弾圧する道を選んでしまった純粋さが垣間見えます。

 しかしそれを彼女の血に濡れた人生の背景とするならば…メアリーのの弱さや心の揺らぎを舞台で示してほしかった。彼女の内面を推しはかれるような台詞を作って欲しかった、と思います。インパクトのある悪役だけに、もったいないなという印象を受けました。

 もちろん、通常の舞台で言えば、レディ・ベスも及第点なのかもしれません。しかし、あの「エリザベート」や「モーツァルト!」を生み出した巨匠クンツェとリーヴァイのタッグだからこそ、見るほうも、及第点を超えるものを求めてしまうのです。

 その意味で、本作はまだまだ改善の余地に溢れた「未完の作品」という印象を受けました。

 役者は熱演している。なればこそ脚本が惜しまれてならない。そう感じられた観劇体験でした。