わたしが舞台を好きなわけ

観劇した舞台の感想や自分なりの批評を書き綴るブログです

完成されたエンタメ演劇 ~東宝「1789 バスティーユの恋人たち」~

2018年5月9日 帝国劇場
役替わり
ロナン:小池徹平 オランプ:夢咲ねね マリー=アントワネット:凰稀かなめ

 

 最高のエンタメ。観客が日常を忘れて楽しめる王道のミュージカル。
「1789」はまさに、そのように言い表せる作品ではないでしょうか。
 現代的な音楽に、エンタメ性に溢れた脚本。そして心地よい物語の疾走感。どれをとっても純粋に楽しむことができます。


 そして「1789」の最大の魅力はその「世界観」。
フランス革命なのに現代的な音楽。
フランス革命なのに現代的なダンス。

フランス革命なのに現代的な衣装。
 歴史と「今」とが絶妙に組み合わさった世界観は、新鮮で衝撃的。まさに「1789」ならではだと思います。
「マリーアントワネット」「スカーレットピンパーネル」など、フランス革命を題材にしたミュージカルは枚挙にいとまがありません。それでも、1789のフランス革命に対するアプローチは、全く違うものだと感じます。


 その魅力のひとつは、「名もなき庶民を主人公にした点」にあると思います。
 フランス革命というと、「倒される側」の王・貴族と「倒す側」の革命家・民衆という二項対立に単純化されがちです。
 しかしその陰には、もっと重要な対立関係が潜んでいる。
平民でありながら、高等教育を受けた革命家たちと、明日のパンのために働く民衆。同じ「現体制を倒す側」であっても、両者の間には、深い隔たりがあったはずです。
 当たり前のように思えて、けれど見落としてしまいがちな溝。1789はこの溝を観客の前に可視化してくれました。
 餓えと戦う民衆は、理想論を語る革命家とは別次元の苦しみの中にいる。
 それを表現するためには、主役は、何の力もない庶民でなくてはならなかったと思います。


 そして「1789」の魅力といえば、登場人物全員が、脇役に至るまで個性的なこと。
 癖の強いアルトワ伯爵や取り巻きで道化役のラマール、観客もぞっとするほどの弾圧者ペイロール…。
 実力者揃いの俳優陣である、ということも勿論ですが、キャラクター設定が魅力的で飽きさせません。

印象に残ったキャストの感想を少し。

 

・ロナンとオランプ
言わずと知れた主役とヒロイン。ロナンとオランプがどのように惹かれ合い、恋に落ちて行ったかは脚本で明確に書かれていません。唐突な展開にも見える脚本の穴を埋めるのは、芝居の役割。そしてフロナンとおランプの芝居には、二人の驚きやときめき、心の揺れ動きが容易に見て取れました。

 
・マリー=アントワネット(演・凰稀かなめ
凰稀さんのマリー=アントワネットは、やや歌唱力が弱いという印象を受けました。
その一方、アントワネットの成長をはっきりと分かるかたちで表現したお芝居に圧倒されました。登場シーン「全てを賭けて」では、心もち頼りなげな声や、幼稚なしぐさで考えの足りぬ遊び人の王妃を印象付けるお芝居。けれど二時間を経た彼女は、国を背負う自らの責務に目覚めた、堂々たる女王へと変貌を遂げます。
 マリー=アントワネットの変貌。
そこに至る王妃の心境の変化が丁寧に描かれ、違和感なく受け入れられるものになっていたように思います。王太子の死を自らへの天罰と思い、今まで堂々としていたフェルゼンとの不倫にも後ろめたさを感じるようになり、王妃という立場に目覚める…というプロセスは、見ている側にも実に納得のいくものでした。


・ダントン(演・上原理生)
ダントンといえば、男の中の男。情に厚く、酒と女を愛し、だれとも分け隔てなく接しうる好漢。敵のためでもひと肌脱ぎかねない情熱の男。「男が惚れる男」と評されるダントンの魅力を表現するのは、一筋縄ではいかないことでしょう。
 けれど上原理生さんのダントンは、まさしくダントンという人物のイメージを具現化したようなたたずまいでした。劇場に響き渡るバリトンは、議場を虜にしたダントンの雄弁さを想起させ、逞しい肉体は、そのまま彼の度量の大きさを思わせます。見せ場のソロ「パレロワイヤル」は勿論のこと、登場場面では終始存在感があり、舞台に落ち着きを与えていたと感じました。
・ペイロール(演・岡幸二郎
みごとな歌声を響かせてくれるキャストは幾人もいましたが、MVPを決めるとすれば、間違いなくペイロールでしょう。幕開きのソロで、瞬時に観客の心を奪う歌声は、さすがという他ありません。ドスの利いた声、威圧感…岡さんの桁違いの凄みを感じました。

 

再演があれば、劇場にぜひ足を運びたい作品です。

未完の王道ミュージカル~東宝「レディ・ベス」~

観劇:2017年12月

※脚本に辛口な感想です。

 

 クンツェとリーヴァイならもっと出来るはずだ。

 一言で表せば、そういう物足りなさを感じた公演でした。

 

 もちろん、評価に値する部分も数多くありました。

 羅針盤や星空を思わせる舞台装置の神秘的な美しさ。違和感なくスムーズな場面転換。役者たちの熱演。

 ただ、それだけに、物語の深みの足りなさがどうしても目立ってしまったように思います。

 

 ミュージカル「レディ・ベス」の課題はまず、一にも二にも唯一のオリジナルキャラクター・ロビン=ブレイクの造型にあるように思います。

 流れ者の音楽家ロビンが、チューダー朝の王女と出会い、恋に落ちる。その展開が余りにもおとぎ話的で、物語に没頭することができませんでした。

たとえば二人の出会いのシーン。馬車が故障した森の中で出会う、というのは余りにステレオタイプ的な展開のように思います。

 一般的に、舞台は、小説よりも単純な設定が使われても違和感が出にくいもの。けれどこのシーンには、首をかしげざるをえませんでした。

 またその後、庶民のロビンがベスの邸に簡単に入り込めるのも、ベスが邸から容易に抜け出せるのも、「主人公補正」の感が強く、あらゆる物語で幾度となく繰り返されてきた構図という感がぬぐえません。

 何より、ロビンという人物が、どんな過去を持ち、どんな経験を得て流れ者の音楽家になったのか、といった背景がまったく語られないことが、役としての彼を曖昧にしてしまっているように思いました。実在した他の登場人物に比べ、彼だけがどこか浮いているように感じられたのです。

 物語の都合上、エリザベスにそれまで知らなかった世界を見せてくれる存在が必要なのは分かります。しかし諸国を放浪する下層民と王女、まったく異なる環境で育ち、まったく異なる価値観を持つはずの二人が、出会った途端、互いに惹かれ合う構図は余りにも唐突過ぎないかと思いました。

 せめて二人が心を通わせ合う過程が丁寧に描かれていたならば、もっと説得力があったのかもしれません。

 なぜベスはロビンに、ロビンはベスに惹かれたのか?役者の素晴らしい熱演を持ってしても、二人の感情がくっきりと見えづらいのは、脚本に深みと広がりが足りないからではないでしょうか。

 深みと広がり、と言えば、敵役メアリーの描き方にも、同じような思いを抱きました。

 ベスの前に立ちはだかる異母姉のメアリー。

 歌声・演技力・存在感は主役を食うほど素晴らしいのですが、ストーリーの都合上、異母妹いじめの単純な悪役と化している感は否めません。

 最も惜しむべきは、孤独な己の心情を吐露する最後の登場場面です。自分だって苦しかった。父に見捨てられ母と引き離されて孤独だった、というメアリーの台詞に、なぜか感情移入しきれない自分がいました。メアリーには、メアリーなりの言い分があり正義があった、という部分が脚本からはっきりと見えてこなかったためです。

 

 たとえば私が演劇の虜となったきっかけの公演、宝塚宙組の「神々の土地」を比較に挙げてみましょう。

 この作品には、頑なに周囲を撥ね退け、霊能者ラスプーチンに心酔し、政治を乱す皇后アレクサンドラが登場します。物語の終盤、アレクサンドラには観客の前で自分の思いを吐露する場面があります。

 ドイツから嫁いできて、孤独だった彼女が何を思い、何を守ろうとして生きて来たのか。どうして心を閉ざしたのか。そのきっかけが切々と語られる。

 アレクサンドラの告白は、実に真に迫った、聞く者の心を動かす台詞で、観客は彼女には彼女の言い分があり、正義があったのだと身に沁みて感じます。

 けれど「レディ・ベス」のメアリーには、そのような見せ場が足りていませんでした。

 「神にすがるために新教徒を弾圧した」

 メアリーのそんな台詞からは、神に頼らずにはいられなかった彼女の脆さと、救いを得るために、異端を激しく弾圧する道を選んでしまった純粋さが垣間見えます。

 しかしそれを彼女の血に濡れた人生の背景とするならば…メアリーのの弱さや心の揺らぎを舞台で示してほしかった。彼女の内面を推しはかれるような台詞を作って欲しかった、と思います。インパクトのある悪役だけに、もったいないなという印象を受けました。

 もちろん、通常の舞台で言えば、レディ・ベスも及第点なのかもしれません。しかし、あの「エリザベート」や「モーツァルト!」を生み出した巨匠クンツェとリーヴァイのタッグだからこそ、見るほうも、及第点を超えるものを求めてしまうのです。

 その意味で、本作はまだまだ改善の余地に溢れた「未完の作品」という印象を受けました。

 役者は熱演している。なればこそ脚本が惜しまれてならない。そう感じられた観劇体験でした。

 

理解を超えた「誇り」と「愛」~宝塚花組「金色の砂漠」~

上田久美子の作品は、二度見なければ分からない―‐。

「金色の砂漠」は改めて、そう思わされた物語でした。

 

「神々の土地」で彼女の生み出す世界観の虜になってしまった私。その私が、真っ先にブルーレイを借りて手を出した上田作品が、この「金色の砂漠」でした。

 

 正直なところ、初見時の感想は「神々の土地」ほど熱狂的ではありませんでした。

奴隷として育てられたが実は前の王家の血を引く王子。彼が自分の出自を知り、放浪の辛酸を嘗めた末、復讐を果たす…どこかの国の伝説にありそうな設定、とさえ思ってしまったものです。

 これは、エンターテインメント重視の作品なのだろうか。

 そう思っていた本作への評価は、しかしもう一度見返した時にがらりと変わりました。

 

 「相手を支配したいという愛と、相手の幸せを願う愛」。

 

 このテーマに、なんと忠実な作品だろう。そう思ったのです。

そしてもうひとつ、作品の根底を貫くテーマは誇り。主人公ギィとヒロイン・第一王女タルハーミネは、ともにあまりにも誇り高い人間です。その高すぎる矜持が自らを縛り、愛を素直に表せない。ギィは奴隷でありながら、プライドを捨てられぬ人物としてはじめから登場します。王女の前でも一人の男としてあろうとする誇り高さ。王女も自らも同じ人間であるとの意識。それが、タルハーミネが自分を見下すことへの怒りに満ちた愛となって噴き出します。

一方、タルハーミネのギィを烈しく拒むような目線、挑むような口調もまた、高いプライドゆえに素直になれない愛情の裏返し。彼女は心の奥底でギィに惹かれながら、その事実を認めまいと必死に取り繕う。誇り高さゆえに、自分自身のほんとうの気持ちにさえ目を向けられない。ギィと一夜を共にした後、婚約者テオドロスに「まさかあの奴隷を愛していたのか」と詰め寄られ、愛してなどいないと叫ぶシーンはまさに象徴的でした。

だからこそ、最後に息絶える時、愛を叫び、奴隷を愛した自らを受け容れるタルハーミネの台詞が胸に迫ります。すべてを棄て、命の瀬戸際に立たされてしか愛を口にできない。そんなタルハーミネの傲慢ともいえる気高さを、花乃まりあさんは十二分に表現していたのではないかと思います。

 タイトルの「金色の砂漠」、それは互いが誇りを捨て、愛に向き合える心の境地を指していたのかもしれません。

 上田作品は「冒頭のシーン」に意味あるものが多いと感じますが、この「金色の砂漠」もまさにそう。

冒頭、砂漠に行き倒れた二つの骸は、物語のラストで折り重なるようにして息絶えるギィとタルハーミネを暗示します。

舞台で物語られることは全て過去であり、死んでしまった魂たちの幻。

そんな幻のような恋物語に、砂塵に包まれた古代の王国という設定は、ぴたりとはまって見事です。

 最後に。「金色の砂漠」は他の上田作品—-例えば泣けると話題となった「星逢一夜」のようなーーに比べれば、好みの分かれる作品であろうと感じます。

 主人公とヒロインはともに激情家。ふたりが相手に抱く愛は、誇り高さゆえに複雑で、憎しみと絡み合って屈折している。ストレートな恋情と違い、なかなか理解しうるものではありません。

ふたりに対比されるように描かれる、第二王女ビルマーヤと、彼女に仕えた奴隷・ジャーの穏やかな愛情に親しみを覚えた人は多いでしょう。

一方、ギィとタルハーミネの、憎しみと紙一重の愛というものは、常人に推し量るのはあまりに難しい。

 しかしその理解を超えた愛を描き出したところに、私はこの作品の意義を感じます。宝塚歌劇としては、すこし挑戦的な作品。けれど挑戦的であるからこそ、この上なく魅力的な作品でもあると思うのです。

 

鮮やかなる、生と死の対比 ~宝塚雪組「ひかりふる路」~

「神々の土地」で観劇の楽しさに目覚めた4年前の私。
その私が、次に宝塚大劇場に足を運んだのは、たしか雪組の「ひかりふる路」でした。
 
じつは、演目が発表された時点から、この作品にはずっと関心がありました。
なぜなら私はフランス革命が好きだから。
16歳で安達正勝先生の「物語 フランス革命」という本に出会って以来、私はこの革命と、そこに浮かび上がる人間ドラマに強い関心を抱いて生きて来ました。
 
恐怖政治の指導者を主人公に、果たしてどんなミュージカルがうまれるのか…。
興味津々、という気持ちで劇場に向かったことを、今でも覚えています。
 
物語の核となるのは、ロベスピエールを殺そうとパリに出てくるヒロイン、マリー=アンヌ。
彼女のモデルが「暗殺の天使」と呼ばれたかのシャルロット=コルデであることは、あらすじを読んだ時から気づいていました。
 
史実のシャルロットは革命家のひとり・マラーを暗殺してギロチン送りとなりますが、
本作のヒロイン・マリー=アンヌは殺そうとして近づいたロベスピエールに次第に惹かれ、悩み、暗殺に失敗して、テルミドールのクーデターを生き延びます。
クライマックス。
「教えてくれ、私と君の間に、真実と言えるものがひとつでもあったのか」と問うロベスピエールにマリーアンヌは答えます。
「ひとつだけあるわ。あなたを愛してしまったこと。…(中略)殺すために近づいたのに私はあなたを愛してしまった。でも、同じように殺したい。全て真実。全てが私の中でぶつかり合っている」
 胸の中でせめぎ合う、相反するふたつの激情。魂の叫びのようなその思いを、真彩希帆さんは全身全霊で表現していたと思います。
そしてラストシーン。
コンシュルジュリ監獄から断頭台への路を進むロベスピエールと、釈放されて「生」への路へ踏み出すマリー=アンヌ。
すぅっと舞台に浮かび上がった2本のひかりの路。決して交わらないその道を、一人は死へ、一人は生へとまっすぐに進んでいく後ろ姿が忘れらません。その対比が見事で、いまでもなお、情景が脳裏によみがえります。
 
主演のお二人の演技と歌唱力はもちろんずば抜けていましたが、私の印象に強く残ったのは、ダントンを演じた当時の二番手・彩風咲奈さんの役作りでした。
ダントンと言えば、豪放磊落で、男の中の男と言われた革命家。
酒好きで女好き、外見も男性らしい風貌で、女性にとってはなかなかに演じづらい人物です。
けれど彩風さんの演技は、情熱的で、包容力があって、奔放な男らしさがたっぷりと感じられて。
ああ、まさしくダントンだなぁ
と自然に私を納得させてくれる役作りだったと感じます。
 
最高のダントンが見られた一方で、唯一残念だったのは、彩凪翔さんが演じたロラン夫人を単なる悪役にしてしまった脚本でした。
ロベスピエールが主人公なら、彼と対立したロラン夫人が敵役になってしまうのはいたしかたありません。
しかし、史実のロラン夫人は、男に媚びたり、ましてタレイランと組んで裏で陰謀に手を回すタイプの女性ではありません。正々堂々ロベスピエールとわたりあえるだけの知性と度胸を持った女性です。
男の政治家に一歩もひけをとらなかった聡明な女性。
彼女をそう描いたほうが、もっと作品全体に深みが増したのではないだろうかと思います。本来男役の彩凪さんだからこそ、強く知的な女性像を演じられたはずですし、彼女が凛と胸を張ってロベスピエールに真っ向勝負を挑む演技を見てみたかった…と思えてなりませんでした。
 
ミュージカルナンバーはいずれも壮大で、耳に残る素敵な曲が多かったと思います。

全てはここから始まった ~宝塚宙組「神々の土地~ロマノフたちの黄昏~」

記念すべき最初の投稿は、どうしてもこの作品から始めたかった。

 

2017年9月、偶然見に行くことになった宝塚宙組の公演「神々の土地」。

尊敬すべき大学の先輩・上田久美子先生が手掛けたこの公演は、わたしに、舞台の素晴らしさのすべてを教えてくれた大切な大切な作品です。

 

「神々の土地」という物語は、わたしにとって完璧な舞台でした。

 

 観劇してからしばらく他のことが考えられず、どうしてももう一度見たい、とチケットを探し回って3回足を運びました。ひとつの舞台を一回以上見たことも、ひとつの芸術作品が何ヵ月も頭を離れなかったことも、その頃の私には、生まれてはじめての経験でした。

そして真夏の観劇だったにも関わらず、私はその時、ロシアの匂い…荒涼たる大地を吹き渡る風の冷たさを、はっきりと劇場で感じ取ることが出来たのです。こんな経験は生まれてはじめてのことでした。

 

 

【あらすじ】(公式HPより引用)

1916年、ロシア革命前夜。帝都ペトログラードで囁かれる怪しげな噂。皇帝ニコライ二世と皇后アレクサンドラが、ラスプーチンという怪僧に操られて悪政を敷いている——。折からの大戦で困窮した民衆はロマノフ王朝への不満を募らせ、革命の気運はかつてないほどに高まっていた。

皇族で有能な軍人でもあるドミトリー・パブロヴィチ・ロマノフは、皇帝の身辺を護るためペトログラードへの転任を命じられる。王朝を救う道を模索する彼にフェリックス・ユスポフ公爵がラスプーチン暗殺を持ちかける。時を同じくして、皇帝から皇女オリガとの結婚を勧められるドミトリー。しかしその心を、ある女性の面影がよぎって…

凍てつく嵐のような革命のうねりの中に、失われゆく華やかな冬宮。一つの時代の終わりに命燃やした、魂たちの永遠の思い出。

 (引用終わり)

 

この「心をよぎるある女性の面影」こそ、本作の核でありヒロイン、セルゲイ大公妃イリナです。

主人公ドミトリーとは血の繋がらない伯母と甥。互いに惹かれ合いながら、ふたりは決して、ただの一度も、「愛している」とは言いません。それでも、作品を見れば、二人の心の在処はおのずと分かるでしょう。彼らの間に流れる、余人には入り込めない空気が、劇場ではひしひしと感じられました。

 

 私は全てを語らない物語が好きです。

 心に秘めた感情を、ストレートにせりふには載せない。

 観客はその思いを、目線から、声音から、しぐさや言葉の間合いから…とにかくあらゆる部分から汲み取らねばならない。いまはわかりやすいエンタメ作品ばかりが求められますが、わたしは婉曲的な表現に彩られ、受け手の想像の余白を残した作品こそ、「演劇らしい」と思っています。

 

 神々の土地は、観客に、たくさんの想像を掻き立てさせてくれる作品です。

 例えば作中二度も登場する、ロシアの雪原のセット。至極シンプルな舞台装置でありながら、私の目には、遥か遠く、地平線まで広がる雪原がありありと見えました。ロシアの大地の広漠さ、つめたさ、あたたかさの全てが、あのセットには込められていました。

 それからクライマックスのひとつ、世界史でお馴染みのラスプーチン暗殺のシーン。主人公ドミトリーは、客席に背を向けたままピストルを撃ちます。役者は、張りつめたその一瞬の雰囲気を背中で表現し、観客もまたそれを想像で補って受け止めねばなりません。

  そして何より多くを語らないヒロイン。

 自律し、感情を抑えることを覚えた、気高い大人の女性。そんなヒロインの存在が、この作品を素晴らしいものにしていたと感じます。

「もう汽車の時間ね。ここでお別れしましょう」

 物語の最後、心を通わす相手・ドミトリーに、そう言って自ら別れを告げるイリナ。第一次大戦が泥沼化し、革命の嵐が迫り来る中、もう二度と会えないことを予感しながら、それでも相手を送り出そうとするイリナ。この一言の台詞に、彼女の魅力の全てが収斂しているように思えます。相手の覚悟を知り、自ら相手の背を押して離れていく大人の女性の姿は、美しいという一言で片づけてしまうには、余りにも切ないものがありました。

 そして革命の火の手が上がる中、大公妃イリナは亡命を拒んでロシアに残る道を選びます。自分の身に待ち受ける死の運命を予期しながら、多くを語らず、静かにその時を待つイリナ。皇族の一員として、ロシア人民に生かされてきた自分は、ロシアに対して責任がある。物語の中で、彼女は毅然として言います。その高潔な態度は勿論美しい。でも、ほんとうは、彼女が逃げなかったほんとうの理由は、ロシアが愛する男の国だったからではないでしょうか。

 祖国ドイツから、言葉も分からないまま嫁いできたイリナは、ドミトリーに出会ってはじめてロシア人になった。だから祖国ドイツに帰ることは、ロシア人であることを棄てること。彼女はそう思ったのではないでしょうか。亡命を拒み、ロシアの大地にとどまるという選択は、彼女らしい愛の貫き方と言えるでしょう。

 イリナの美しさ。イリナの神々しさ。

 それはどこから生まれてくるものでしょうか。思うに、多くを語らぬその生き様こそがイリナに、神々しいまでの美しさを与えているような気がします。ただの一度も「好き」「愛している」とは言わない。ドミトリーを引きとめもしない。だからこそ、別れが迫った二人のシーンには、ひときわ心揺さぶられるのです。

「あなたがいたから、私はこの国を好きになった」

 彼女がドミトリーと最後に会った時、叫ぶように言ったこの台詞が忘れられません。決して思いを口に出さなかった彼女の、最初で最後の告白。

 かつては、自分の心を押さえ、ドミトリーとダンスを踊ることさえためらったイリナが、雪を掛け合ってたわむれ、熱く抱擁する。もう二度と、生きてこの世で会うことはないだろう。そんな運命を悟った時、はじめて彼女は少しだけ、自分の秘めた思いに素直になれたのでしょう。

 

 何年経っても、私はこの作品が好き。

 私にとって、すべての始まりの作品。だからこうして最初に語らせて頂きました。

 

 

わたしが思う「舞台」の3つの魅力

みなさんにとって、舞台の一番の魅力は何でしょう。

 

答えは人それぞれ、違うからこそ面白いもの。

 

けれどもし、私が、普段観劇をしない人に「舞台の魅力は何?」と聞かれたなら。

きっと、次の三つを挙げると思います。

 

①舞台は生きもの

その日によって、板の上に流れる空気はまるで違う。

或いは封を切られたワインのように、日を重ねることにお芝居は変化していく。

同じセリフ、同じ衣装、同じ舞台装置でありながら、一度として同じ瞬間は無い。

その刹那の感覚に、たまらなく惹かれます。

 

 ②発散される人間のエネルギー

もちろん映像作品でも、人の熱量やエネルギーを感じることは十二分に出来るでしょう。

けれど、編集され切り取られ、レンズ越しに見る演技と、生身の人間が眼の前で行っている演技とでは、肌に伝わってくるエネルギーの熱量が違う。そこに魅了されました。

 

 ③不自由

映像作品と違って、CGや合成は使えない。火や水を使うわけにもいかない(まれに使うこともありますが)。

たった一枚の板の上で、火事も嵐も地震も戦争も表現しなくてはいけない。

その不自由さが、かえって大いなる魅力に感じられるのです。

 

言われてみれば、どれも至極当たり前のこと。

けれど当たり前に見えて、本当に凄いことだと思うのです。

 

昨今のコロナウイルスの流行で、劇場公演を動画配信する団体も増えました。

けれど、「画面越し」と「あの空間に座っている」のとでは、五感を通して感じられるものがまるで違う。

だからこそ、一度は、劇場に足を運んでみて欲しい。そう思えてなりません。

 

 

はじめましてのごあいさつ~わたしがブログをつくるわけ~

舞台を見ることが好き。

板の上に溢れるエネルギーが好き。

 演劇という表現手段が好き。

 

そう思うようになって、早四年が経ちました。

 

新型コロナウイルスの流行で、多くの物語が公演中止に追い込まれた昨年。

私が劇場へと足を運ぶ機会も、めっきりと減ってしまいました。

生の舞台が遠ざかってしまった今だからこそ、自分がかつて見た作品への思いを書き残したい。

 そう思い立ち、ブログを開設してみることにしました。

 

思い返せば二十歳のころまで、私は演劇とはほとんど無縁の生活をしていました。

 それまでの人生で舞台を見た経験と言えば、歌舞伎が3回、劇団四季と宝塚が1回、ロンドンでミュージカルが1回程度。

 

どの舞台もそれなりに楽しめた記憶がありますが、その時の私には、まだ我を忘れてのめり込むという感覚はありませんでした。

 

そんな私の人生を変えてしまったのが、偶然…本当に偶然、観劇することになった宝塚宙組の公演「神々の土地 ~ロマノフたちの黄昏~」でした。

 

舞台は、なんて大きな可能性を秘めた表現手段なのだろう。

 

舞台は、なんて激しく五感を刺激する空間なのだろう。

 

心の底からそう実感したあの日。

私は一夜にして、舞台という表現手段の虜になったのです。

 

以来、合間を縫って、いろいろな舞台作品に足を運び、感じたこと、気づいたことを、PCの中に書き留めてきました。

 

誰の眼にも触れられることなく、積もり積もっていたとりとめもない感想。

 

それを、こうしてブログという形で公開することにしたのは、ブログを使って発信している友人たちの刺激を受けたからです。

 

最後まで、わたしらしく。

 

作品を通して感じた思いを綴っていけたらと思います。